必要なのは「翻訳」ではなく「編集」

こうした限界を踏まえると、やさしい日本語は別の視点から捉え直す必要がある。実際の現場で問題となるのは、言葉の難しさそのものよりも、情報の伝え方の設計にあるからである。

ここで言う「やさしい日本語」とは、既に完成した情報を後から言い換える「翻訳」の作業ではない。誰に、何を、どの順番で、どこまで伝えるのかを、伝える前の段階から組み立て直す「編集」の問題である。

たとえ表現を平易にしても、前提となる知識や文脈が共有されていなければ、情報は十分に理解されない。逆に、必要な情報が整理され、受け手に応じて構成されていれば、必ずしも極端に簡単な言葉でなくても伝わることがある。

やさしい日本語の問題は、単なる言葉の問題ではない。誰を前提に社会の情報が作られているのかという問題である。

テレビ報道がかかえる構造的制約

では、この問題はテレビ報道の現場において、どのような形をとって現れるのか。テレビは限られた時間の中で映像と音声を組み合わせ、情報を「選び、削り、並べる」編集の営みそのものである。

しかしその編集が、日本語母語話者を暗黙の前提として設計されてきたとすれば、やさしい日本語はどうしても原稿完成後の付加的な対応にとどまりやすい。言葉は平易になっても、情報の伝え方そのものは変わらないだろう。

こうした状況は、テレビ報道に携わる個人の努力の不足というよりも、メディアの構造的な特性に起因する部分が大きい。テレビは限られた時間の中で情報を伝える必要があり、速報性や簡潔さが強く求められる。そのため、伝える内容は必然的に圧縮され、詳細な説明や前提の共有は省略されやすい。

また、映像を中心とした表現が重視されるため、「見れば分かる」という前提が無意識のうちに置かれ、言葉による補足説明の役割が相対的に小さくなりやすい。さらに、ニュース原稿の作成においては、制度や社会の仕組みに関する基礎的な知識が共有されていることを前提とした視聴者像が想定されてきたと言えよう。そのため、こうした知識を共有しない人々にとっては、情報の理解が難しくなる。

結果として、言葉を平易に言い換えたとしても、その前提自体が見直されない限り、情報の伝え方には大きな変化が生じない。