「いや、決断できないもんですよ。いや、『もう、辞めます』って言ったら、そこで終わりですから」と、当時の葛藤を吐露。
それでも「続けたいです。できれば続けてみたい」と事務所の社長に訴えたといいいます。
何日も思い悩む日々が続いたある日、北島さん本人から「事務所に来なさい」と電話が入ります。
「もう自分自身、先生のトーンも低かったので、辞めろっていうことだな」と最悪の事態を覚悟しつつ、北島さんのもとへ向かった大江さん。
会長室の扉を開けた瞬間に土下座。
「『申し訳ございません』って頭下げて。そしたら、先生が頭をずっと撫でるんですよ」と振り返ります。
北島さんから「裕、頑張ったなー。今休む時期なんだよ。俺はお前の歌をもう1度聞いてみたい。そして俺のそばにいないか。俺の付き人をやれ、俺と旅に行こう」と声をかけられたことを明かしました。

全国公演に付き人として同行した大江さんに、北島さんはさらなる支援を。
大阪公演では、舞台袖にいた大江さんを呼び出し「今日は大江裕が袖にいますんで、出てきてちょっと言ってみろ」とステージに立たせてくれたといいます。

また、公演後にホテルに戻ってからも「ピアノで練習。こう弾いてね、裕、これちょっと歌ってみなとか、これやってみな」と、北島さん自ら、ピアノを弾いて練習に付き合ってくれたと語ります。
声が出なくなっていた大江さんは「先生と一緒に『ハー』とか言いながら、笑いながら」と練習を続けるうちに少しずつ声を取り戻していきました。

さらに北島さんは、ある日メモ帳に、新曲の歌詞を書き取るよう大江さんに指示。
「季節は流れて ふる里はいま 変わる景色は 春模様 無事か達者か 親父お袋は」…その後も書き取りは続き、ついに歌詞が3番まで完成。
すると、翌日、北島さんは「これちょっと入れてみなって」とデモテープを差し出しました。
そして、曲の3番に「くじけてなるか 立ち上がる 我慢男の 光る目が」という歌詞が出てきた瞬間、北島さんは「裕、それ裕の再出発の曲だよ」と告げたといいます。
その曲名は「ふる里は いま… 」。
北島さんの「お前も辛かったな。次は皆さまに元気を送らないとダメだ。裕、練習だと思ってレコーディングすればいいから」という言葉に背中を押され、大江さんは再び歌うことが出来たのです。
大江さんは当時を振り返り「先生がいないと、あれは乗り越えられなかったですね。先生に救われたっていうのがやっぱり大きい」と、感謝の言葉を重ねました。
大江さんは、北島さんの名曲をカバーしたアルバムを発売。
「先生の名曲を一度でいいから僕自身アルバムにしたかった」との思いを打ち明け、北島さんからの承諾が得られたときは「天に昇る気持ちでしたね」と喜びを表現。
北島さん本人からも「聴いているけど、よく歌えてるよ」と評価を受けたといい、周辺から「声が似てるね」と指摘されると、「北島さんに似てるねって言われると、うれしくてたまらないんですよね。その人を目掛けて、僕は来てるので、近づいているんだととります」と笑顔。

最後に、「今後の目標」について大江さんは、「演歌を若い世代に届けたい」という思いを語りました。
小学生とか中学生に「演歌ってどんな歌なんだろうと、調べていただいて、演歌の良さを知っていただければ、僕の歌をきっかけで」と期待。
更に、大江裕さんは、演歌に対して「『演じる歌』でもあり、『艶歌』もいいんじゃないかな。『縁歌』もいいんじゃないかな。いろんな『演歌』というものを歌っていきたい」と、その想いを語りました。
36歳の出発点に立った大江裕さんの挑戦は、まだ始まったばかりです。
【担当:芸能情報ステーション】














