「こんな化け物に負けねえぞ」放射能と闘い続けた酪農家

我が子同然に育てた子牛は福島県内の牧場に。親牛の3分の2は何とか買い取ってもらえたが、残りはと畜場に出すしかなかった。

その時も健一さんはカメラを回し続けた。

長谷川花子さん
「なかなか歩かないんです、怖いから。(Q.牛はわかるんだ?)わかりますよ。涙流しますからね」

村に11軒あった酪農家。それぞれが断腸の思いで牛を手放した。

2011年5月7日。まもなく村を出て離ればなれになる子どもや孫たちが一同に集まった。

その時、健一さんは放射能について、こう語っていた。

長谷川健一さん
「ジイジはこんな化け物に負けねえぞ、こんなのに俺は負けてられん」

原発事故から5か月。牛の処分が落ち着いた健一さん夫婦は、年老いた両親を連れ、隣町にある仮設住宅に移り住んだ。

日下部キャスター
「震災前に原発事故を飯舘の人たちは意識したことはありましたか」

長谷川花子さん
「原発はもう遥か遠くのもの。こんな害を受けるなんて思わないので。原発マネーでももらっていれば勉強してるけれど、何もなくて最後に放射能を浴びた」

2019年4月。健一さん夫婦は8年暮らした仮設住宅を出て村に戻った。放射性物質が降り注いだ畑は、表面の土をはぎ取る除染作業をしたうえで返された。そこで選んだのがそば作りだった。

日下部キャスター
「元牛舎だったところは?」

長谷川花子さん
「それを今度、建て替えて、そばの加工施設に。袋詰めまで全部できる。ここは40ヘクタールある。大丈夫というのはそば。自分で思ったみたい」

それから2年後、健一さんに甲状腺ガンが見つかった。すぐに手術したものの病状は改善せず、2021年10月22日、帰らぬ人になってしまった。

長谷川花子さん
「亡くなる朝、電話もらった、珍しく。その時に『会いたいな』って言った。『コロナで会えないね』と言ったら、もう一回『会いたいな』って2回言われたの。『お父さん2回も言われると冗談でも嬉しいもんだぞ』と言ったのが最後の会話なの」

今、健一さんが生きていたら、我々に何を語るだろうか。

長谷川花子さん
「『お前ら原発止められないのか』って言うかも。『こういう目に遭ったんだともっとPRして、こうなったら困るだろうと見せておかないと、みんな忘れてしまうぞ』と言ってるような気もする」