沖縄の本土復帰まで1年5か月に迫っていた1970年12月20日。沖縄県コザ市(現在の沖縄市)で数千人にのぼる群衆らが米軍関係者の車を次々と襲い、焼き払う事件が起きました。なぜ一夜にして沖縄の怒りが爆発し、戦後最大の暴動が起きたのか。その日の現場に足を運び、当時の状況を鮮明に覚えている男性がいます。

「現場がこの辺りになりますね。一番コザで起こった大きな事件事故だったコザ騒動」

平良俊明さん(たいら としあき)71歳、県外の高校生を中心に、自らの経験を交えながら、平和学習ガイドとして、沖縄市の歴史を伝えています。アメリカ統治下時代のコザ市の中心街で育った平良さん、コザの歴史を伝えるなかで『コザ騒動』には、特別な思いがあります。

車両を襲う市民らの音声
「バカヤロー、何年我慢してきたか」
「25年間も沖縄はかわいそうじゃないか」
「糸満の問題はどうなってるんだ」
「沖縄人がひかれて殺されて無罪になるとは何ね」

1970年12月20日未明、アメリカ兵の運転する車が歩行中の男性をはねた事故が発端となり、民衆がどんどん集まります。その後、周辺の事故が続けざまに同様の事故が2件も起きたため、長年抑えられ続けてきた、沖縄の人たちのうっ積した感情が遂に爆発。アメリカ軍関係車両であることを示す“黄ナンバー”を中心に、次々に火を放っていきました。

平良俊明さん
「寝ていると、とにかくゴムが焼けるにおい、臭いにおいが自分の部屋中に匂いが充満していて、びっくりして表に出て、もう燃えている車を追いながら、ずっと山里方面まで歩いて行ったんですね。黄ナンバーの車がみんなやられているのを見ると、不思議と納得しました」

高校を卒業したばかりだった平良さん、前日には嘉手納弾薬庫の毒ガス撤去の県民大会に参加したばかりでした。

平良俊明さん
「そこで皆で拳振り上げて歌も歌ったし、落ち着いて帰って来たのが、この胡屋の町ですよ」

その日、中心街は忘年会に参加した人、県民大会の打ち上げで流れた人でいっぱいだったといいますが、未成年だった平良さんは、家に帰されたといいます。前年の1969年には、知花弾薬庫で発覚した“毒ガスもれ事故”が発生。コザ騒動が起きた9日前の12月11日には、糸満市で起きた“飲酒運転をしたアメリカ兵による主婦れき殺事件”(れき殺=車輪でひき殺す)の無罪判決が出たばかりでした。

首謀者はおらず、偶発的に起こったとされる『コザ騒動』、被害にあった車はおよそ80台、負傷者は88人に上りましたが、車の中の人を外へ出し、火を放っていったとされ、死者は出ていないのが特徴です。

『コザ騒動』が起こった要因は何なのか?ガイドとして案内する中で、平良さんは、“背景”にあるものを考えて欲しいと話します。

平良俊明さん
「ただ、1970年にコザ暴動があったんだよってスッて終わってほしくないんですね、その時の沖縄の人たちの気持ち、心にあったもの何かということをね。住んでいた家の家主さんのおじさんがタクシー運転手してたけど、ベトナム帰りの米兵に頭やられて、長い間入院しましたし、知っている雑貨屋さんのおばあちゃんだけど、米兵が入ってきて、銃向けるんですよ、おばあちゃんに、金とるわけよ。人権がないような時代。それでも沖縄の人たちは、我慢強いっていうか、いきなり何かをするわけではなくて、じっと耐えていたんだけど」

52年が経つ今もなお、沖縄には、多くのアメリカ軍基地が残り、戦闘機が上空を飛ぶなど、変わらない現状が続いています。こうした状況が変わり、コザ騒動が“昔話”として語れる日が来ることを平良さんは、強く願っています。

平良俊明さん
「こんだけ変わったんだよって、こんだけ沖縄の人たちは皆で変えていったんだよとかね、今度は子どもたちに言いたいですよね。それが望みです」