近隣住民の反対運動のビラに「いっしょにべんきょうをせぬように」
【2019年4月に放送した番組から抜粋】
ハンセン病の親を持ち監視の対象とされた「未感染児童」は全国にいた。
熊本の保育所に収容されていたのが、家族訴訟の原告の1人、奥 晴海さんだ。昭和25年、4歳のとき、母親のハンセン病がもとで、父親までも強制隔離され、孤児となった。
(奥 晴海さん/保育所があった場所を訪ねて)
「奥の方に分校があって、イチョウの木がこの前来た時まではあったんですよ」
保育所の名前は龍田寮。近隣住民からの反対運動にさらされていた。
(奥 晴海さん)
「私たちが、龍田寮の中にいたら、外の方から大きな街宣車みたいのでワーワー、何を言っているか分からないけど、とにかく私たちは怖い、怖いと思った」
昭和29年、龍田寮の子供たち4人が地元の小学校に通うことが認められた。しかし、保護者が強く反発し、通学は拒否された。校門にはこんな張り紙がされた。
『いっしょにべんきょうをせぬように、しばらくがっこうをやすみませう』
当時のビラには。
『机を並べて勉強さしてよいでせうか、食事を共にさしてよいでせうか』
(奥 晴海さん)
「一般の子供たちと置いてくれたらこの問題は起こらなかったんじゃないかと私は思うし、私たちだけ、ハンセン病の人の子供だけをここに置いたが故にこの問題は起こるべくして起こった。親も生涯隔離だったけど、龍田寮の子供たちだけは外の子供と触れさせていない、隔離状態に置いたんじゃないかと、私は思っていますよ」














