朝早くから夜遅くまで…身を粉にして働き通した姿 母・ミヨシさんの記憶

曽我ひとみさん

曽我さんと一緒に拉致された母・曽我ミヨシさんがどうなっているのか、未だに事実は判明していない。
北朝鮮側はミヨシさんを拉致したことすら認めていない。
日本に生活していれば、まだまだ元気で畑仕事などをしていたかもしれないと曽我さんは想像している。

母を思い出す時、母を語る時、曽我さんの脳裏にはいつも同じ姿が浮かんでいる。
朝早くから夜遅くまで、本当に身を粉にして働き通した姿だ。

当時は田んぼも耕作していたので、朝仕事をした後、子供たちに食事を食べさせ、学校へ送り出し、母も慌ただしく朝食をとると工場へ出勤していった。
仕事を終え家に帰ってから食事の支度、片付け、一休みする間もなく、内職をする。
これが毎日の生活パターンとなっていた。

なぜ母がこのように昼夜なく働くことになったのかというと、父がバイク事故の後遺症で働けなくなったからだ。
家は貧しく、母が朝から深夜まで働いても、家計が楽になることはなかった。

曽我ひとみさん
「そんな生活状態でも、母は決して愚痴などこぼしたことがありませんでした。それどころか、私たちには、いつも明るくふるまい、少々悪いことをしても、怒ることもありませんでした。自分のことは、いつも後回しで、一番に子供のことを考えてくれる。とても優しく愛情をいっぱい注いでくれる、そんな母でした」

遠足の時、奮発していろんなおかずを作ってお弁当を持たせてくれた。
曽我さんは今までにない豪勢な弁当にただただ喜ぶだけだった。
だけど、母の弁当のおかずは、すごく辛い漬物が少し入っていただけだった。
「どうして母ちゃんは漬物だけなの?」と聞けば「おかずが辛いからご飯がいっぱい食べられるからだよ」というのだ。
母もいろんなおかずが食べたかっただろうに、我慢していたんだなと。
今なら母の気持ちがよく理解できる。