被爆体験を語り継ぐ
これが原爆資料館の真正面にね、写真が飾ってありますがね。藤井幸子さん10歳ですね。この幸子さんのおじさんたちと一緒に仕事をしとったもんですから、仲が良くて、右側におるのは息子さん、藤井哲伸さんはね、由紀子さんの子どもさんなんですよ。子どもさんもね痛い痛い痛い痛いって言いながらね、育てられて、大きくなられてね、大きくなられましたが、これ右側、32歳のときに、42歳か、42歳のときに亡くなられましたよね。そのときに息子さんの藤井哲伸さんは舟入高校の2年生だったと言っておりました。娘さんもおられましたが、妹さんはね、今は大学の先生になっておられます。
ローマ教皇が広島に来られたのご存知ですかね。あの赤いのが私持っておるんですがね。これがね、あのお土産にローマ教皇が私にくださったメダルなんですよ。今日持ってきて皆さんに見せてあげりゃあいいが、人数が多かったから、今日はよう持ってこなかったんですがね。
そしてそのときに私はローマ教皇にお願いしたのは、世界の政治家が戦争を止めないから、ローマ教皇は一つ戦争をやめるように言ってくださいっていう手紙をね、渡しとるところです。広島の平和公園、夜ね11月だった、ちょっと寒かったですよね。
私の両親
昭和20年、父は兵士としてフィリピンに行った。私が小学校に入学して間もない頃だった。しばらくして母が呉の病院に入院した。肺結核だった。私は大野村に住む父方の祖父母に引き取られた。叔父たち10人の家族に見守られ、寂しさが紛れた。
大野村というのはね。宮島のすぐそばなんですよ。
8月6日の広島への原爆投下、そして終戦、11月の寒い日の夜、母が私のもとにやってきた。宮島口駅から暗い道を、病弱の足で1時間余り。結核は当時、治療が難しい病気とされていた。私に会いたい一心だったに違いない。祖父母は母に結核は子供に移りやすいから、病気を治してから一緒に暮らしなさいと諭した。私にも母と話をしないように強く言った。翌朝、母は荷車に乗せられ、病院に戻っていった。私が見た母の最期の姿だった。母が亡くなったと聞かされた。26歳。父の戦死公報が届いたのはそれからすぐ。32歳だった。母よりも8ヶ月早く亡くなっていた。終戦が1年早ければ、父が戦死することもなく、母も心おきなく治療できただろう。戦後80年、平和な日本に住む私は、子供や孫に恵まれて幸せだ。ロシアのウクライナへの侵攻で傷つく市民の姿を見ると、心が痛む。1日も早い終戦を願う。
これは広島のね、おばあちゃんが書かれたものです。
恒久平和への誓い
8月6日広島では毎年平和公園でね、大きな式典をやるんですけどね。最後にね、「ひろしま平和の歌」を合唱するんですけど、広島にはね、基町高校、舟入高校、国泰寺高校という学校があってね。その生徒たちがね、もう朝6時過ぎからね、来てじゃんじゃんじゃんじゃん練習するんですよ。普段練習してませんからね。そのときのこれ映像です。この歌を歌って式典が終わるんですがね。
恒久平和への誓い、34万人のね、死没者の名簿がこの中に入ってる、慰霊碑の中にね。To everyone in the world 世界の皆様へ被爆者が生きているうちに核兵器をなくしてください。今生きている被爆者10万人の訴えです。本当は9万9000人ぐらいですけどね今ね。そのぐらい被爆者はだんだんなくなって減っていく、いっております。サンキュー 14 October 2025
被爆証言は終わります。これから今度はノーベル賞でノルウェーに行ったときのことをやらせていただこうと思います。お願いします。














