ウサギの島の「隠されていた」歴史
当時、工場は軍事機密とされ、島の存在自体がないものとされていました。
一方、作業に動員された周辺住民や学生などは、戦後も、呼吸困難や慢性気管支炎、肺がんといった呼吸器系の病気などに苦しみ多くの人が亡くなりました。

この場所に、慰霊碑が建てられたのは今からちょうど40年前。その時から始まった慰霊式に、当初は200人あまりの遺族らが参列していましたが、今年は、77人でした。
式ではこの1年間に亡くなった107人の名前が新たに書き加えられ、4493人の名前が記載された死没者名簿が、慰霊碑に奉納されました。
89歳になる伊勢本学さんは、当時、工場で働いていた父を迎えに島に何度も上陸したそうです。父は、肺癌を患って亡くなり、伊勢本さん自身も、気管支炎や肝臓癌などを患っています。

大久野島毒ガス障害者対策連絡協議会 伊勢本学副会長
「僕も色んな癌の手術をしてます。病気を耐えてここまでがんばってきたわけですけど」
伊勢本さんのように、毒ガスによる被害を国に認定された人は、ピーク時の1987年度末に4772人いましたが、今では432人。平均年齢は95・6歳となっています。
毒ガス被害者の遺族 山内静代さん
「(父は)毎晩咳が激しくて、吸入器のようなもので夜になると咳を鎮めて」
山内さんの父は、毒ガス工場の守衛をしていて、慢性気管支炎を患っていました。
山内さんは、この島の被害と加害の両方を学ぶことで本当の平和を考えることができる、と言います。














