戦後80年プロジェクト「つなぐ、つながる」です。80年前、戦時下の沖縄で産声をあげ、戦場を生き延びた女性の証言です。父と母、それぞれの決断がつないだ命とは…。
真喜屋光子さん(80)。沖縄で住民を巻き込んだ地上戦がはじまる2か月前、本島中部に生まれました。
1945年4月、アメリカ軍が沖縄本島に上陸。当時20歳だった母親は乳飲み子を抱え、50キロ以上離れた北部への避難を試みます。
鉄の暴風とよばれた激しい砲撃を避けようと防空壕に逃げ込みますが、そこで思わぬ選択を迫られることになりました。
真喜屋光子さん
「壕の中に日本兵もたくさんいて、赤ちゃんを連れた人たちもいた。そうしたら、『赤ちゃんを抱いてる人は出しなさい。この子が泣いたら、米兵に見つかる。自分たちが殺してあげる』みたいなことを言われて」
兵隊に逆らえず、我が子の口に布をあて窒息させる人の姿を見て、真喜屋さんの母親は決断しました。
真喜屋光子さん
「(母は)とにかく赤ちゃんを守る、あなたを守ることだけ。死ぬときは一緒、子どもを渡して生き残る気持ちはなかった。壕から祖母と一緒に出てきたと(話していた)」
壕を出て、再び戦場をさまようこととなった親子。ほどなくしてアメリカ軍の捕虜となりました。
一方、父親は沖縄本島南部で戦死。そして、終戦から2年ほどたったある日、父親の最期を知る男性が訪ねてきました。
県庁職員だった父親は、沖縄戦を指揮した牛島満司令官ら幹部の食料隊長として従軍。牛島司令官が自決したあと、自分の部下に、こう告げたといいます。
真喜屋光子さん
「『自分は死ななければいけない。みんなは生きて、次の世は必ずあるから生きていきなさい』と言って、(自決用の)青酸カリを取り上げた。部下に『次の時代に生きろ』と言った、この英断は娘として誇りに思う」
戦時下に産声をあげた真喜屋さん。80歳となった今も戦争の犠牲となった父親を思い、平和を願いつづけています。
真喜屋光子さん
「あの当時、大変な時代に、沖縄のためにという人たちがたくさんいらした。そういう方たちが自ら命を絶ったということが、私はすごく悔しい。自ら命を絶つ責任は、どこにあるのかと思う」
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