短距離、ハードル種目のレベルを向上させた高野の功績

高野は88年ソウル五輪で44秒90と日本人初の44秒台をマークしたが、準決勝を突破できなかった。後半型のレースパターンでは難しいと考え、前半から外国勢に後れないレース展開を目指した。そのため89、90年間は400mへの出場をなくし、89年は100m、90年は200m中心にレースへ出場した。90年北京アジア大会は200mで優勝している。

そして91年に400m復帰し、6月の日本選手権で44秒78の日本新をマーク。8月の東京世界陸上で7位に入賞した(舞台はどちらも国立競技場)。これは1932年ロサンゼルス五輪100mで6位になった吉岡隆徳以来の、男子短距離種目での世界大会入賞だった。高野は翌年のバルセロナ五輪でも8位入賞を果たしている。

高野は“ファイナリスト”という言葉を使い、短距離種目の決勝で走ることの意味を陸上界にも、世間にもアピールした。高野を追うように日本の短距離、ハードル種目が成長し、世界と戦う気運が大きくなり始めた。

400mハードルの山崎一彦が95年イエテボリ世界陸上7位と続き、100mの朝原宣治と200mの伊東浩司が、96年アトランタ五輪で決勝進出にあと一歩と迫った。そして01年エドモントン世界陸上400mハードルで為末大が銅メダルを獲得し、03年パリ世界陸上200mでは高野が指導した末續慎吾が銅メダルを獲得。

100mは伊東が98年に出した10秒00を破るのに時間がかかったが、100m&200m選手たちは確実に成長していた。朝原と末續らがメンバーだった4×100mリレーは、08年北京五輪で銀メダルを獲得。16年リオ五輪でも山縣亮太(33、セイコー。21年に9秒95の日本記録)、桐生祥秀(29、日本生命)らで銀メダルを獲得した。

その中から桐生が17年に9秒98と、日本人初の9秒台をマーク。その記録を更新したサニブラウン・アブデル・ハキーム(26、東レ)が22年オレゴン世界陸上7位、23年ブダペスト世界陸上6位と連続入賞した。

110mハードルは23年ブダペスト世界陸上で泉谷駿介(25、住友電工)が6位と初入賞。村竹ラシッド(23、JAL)がパリ五輪、今大会と2年連続5位に入賞した。110mハードルは高野が作った流れに入らないかもしれないが、110mハードル選手の100mの記録が上昇していることが、世界に近づいた要因の1つとされている。

しかし短距離・ハードル躍進の起点となった400mでは、高野以後誰も決勝に進めていなかった。日本記録を46秒台中盤から44秒78まで引き上げた高野は、当時の日本では突出した存在だったからだ。高野が指導した小坂田淳が、44秒台は出せると言われながら出すことができなかった。しかし小坂田と伊東がメンバーだった4×400mRの日本チームはアトランタ五輪5位、小坂田が3大会連続メンバー入りした04年アテネ五輪も4位と入賞した。その後時間は空いてしまったが、日本チームは21年東京五輪予選で3分00秒76と、アトランタ五輪で出した日本記録に並ぶと、23年オレゴン世界陸上で2分59秒51のアジア新で4位入賞。24年パリ五輪も2分58秒33のアジア新で6位に入賞した。

400mの日本記録は23年ブダペスト世界陸上で佐藤拳太郎(30、富士通)が44秒77と、高野の記録を0.01秒更新した。そしてオレゴン以降の4×400mリレーでメンバー入りしてきた中島が今回、五輪を含めた世界大会でいうと33年ぶりに決勝進出を果たしたのである。

中島の準決勝レース後に、高野が自身のSNSでこうつぶやいた。「ジョセフありがとう!決勝、応援しています。」

高野の高校時代を指導した人物とは?

その高野と中島に“意外なつながり”があった。梶原監督の兄の千秋氏が、静岡吉原商高(現富士市立高)時代の高野を指導していたのだ。

梶原監督は91年の東京世界陸上にも、大会スタッフとして参加していた。高野の決勝進出も目の前で見ていたという。「鳥肌が立ちましたね。泣いているつもりはないのに、自然と涙が出ていたと思います。兄の教え子が地元開催の世界陸上で歴史に残る快走をして、すごく感激したことを今でも鮮明に覚えています」

それから34年が経ち、今度は自身が手塩にかけた中島が、高野と同じように決勝進出を果たした。34年前と同じように涙が出てしまっただろうか? 大会前の取材では
「どうですかね。ジョゼフが思った通りの走りをして決勝に残ったら、それなりに感動すると思いますが」と話していた。

中島自身は決勝に向けて、以下のように考えている。

「まだ修正できるところはあります。特に前半は、もう少し行って(スピードを上げて)、後半もまとめられたらメダルも見えてくると思います。自信を持って行きます」。大会主催者の取材には「44秒20が目標です」ともコメントした。

高野の7位入賞から34年。その間、400mをもう一度世界のトップに、と頑張ってきた先輩たちがいた。ともに4×400mリレーを走り、個人でも世界大会決勝へと切磋琢磨してきた仲間たちもいる。そして自身を日本トップレベルに引き上げてくれた梶原監督。9月18日に行われる決勝を、中島は色々な人たちの思いに背中を押されて走る。

(TEXT by 寺田辰朗 /フリーライター)