太平洋戦争末期、旧日本軍が開発した人間魚雷「回天(かいてん)」は、爆薬を積んで敵艦に体当たりしていたため「鉄の棺桶」とも呼ばれていました。

熊本に住む元搭乗員が「海の特攻」の実態を語りました。

玉名市に住む浦田勝さんは、今年6月に100歳を迎えました。

浦田勝さん「100まで生きるなんて、思わなかった」

元気な姿を見せる浦田さんですが、今から80年前、人間魚雷「回天」の搭乗員を志願しました。

浦田勝さん「(写真を見て)これは19歳くらいかな。お国のためだなあ。日本人にみじめな思いをさせたくなかった。負けてたまるかですよ」

「回天」とは太平洋戦争末期の1944年、旧日本軍が開発した特攻兵器で、全長15m、先端に1.5トンの爆薬を積んだ魚雷に1人で乗り込み、最高時速55キロで敵艦に体当たりします。

海軍に入ったばかりのころ、浦田さんは、こんな話をされたといいます。

浦田勝さん「一人息子は遠慮した方が良いと思うと。これだけだった。墓場行の乗り物だったので」

敗色濃厚な戦局を一転させるためとして開発されました。

ただ、脱出装置はなく、一度出撃すれば生きては戻れず、多くの若者の命を奪いました。

浦田さんがその回天の搭乗員に選ばれたのは、1945年春のことです。

浦田勝さん「初めて乗る人間は怖がっていた。やっぱり怖がっていた。眠れない。神経が…」

全国に4つの訓練所が置かれ、浦田さんは大分県の大神訓練基地に配属されます。

浦田勝さん「『明日は必ずガダルへ飛んで、玉と砕けん心意気。父さん母さん、これが最後です。白木の箱が届いても、泣かずにほめてくださいね』そんな歌だった。よく歌っていたな」 

軍歌を歌いながら士気を高め、厳しい訓練を重ねる日々。しかし、出撃することなく、数か月後に終戦を迎えました。浦田さん、20歳の夏でした。

浦田さんは、戦後は政治の道へと進み、熊本県庁が熊本市の桜町にあった1959年から県議会議員を6期務め、58歳の時に国政へと進出します。

「参院議員、浦田勝、バンザーイ、バンザーイ」

熊本県選出の参議院議員として、農家の所得向上や農村の活性化に力を注ぎました。

浦田勝さん「日本が今日まで繁栄できたのは農村のおかげ。そして、今、農村は地盤沈下をしております」

政界引退後は、JA熊本果実連のトップとして、民間の立場から農業の振興に取り組みました。

今は熊本県玉名市の自宅で静かに暮らす浦田さん。

保守政治家として名を馳せた浦田さんに、80年前の戦争について改めて聞きました。

浦田勝さん「日本のおごり負け、おごり負け。おごっていた。勝つとは思わなかった。勝つ訳がない。物量はない、弾丸もない。あるのは魂だけ。大和魂ね。戦争は勝っても負けても正しくない」

戦後80年、命をかけて戦い、郷土の発展に力を注いできた浦田さん。

願うのは日本の平和と明るい未来です。