巻口さんは当時の記憶を紡ぐように話します。

「大雨が降って、川も水が氾濫している中、命がけでロープを渡してつたって行った。ロシア軍の兵士たちが乗り込んできては、『腕時計をよこせ』『金の指輪をよこせ』とか。そのほかにも“女性狩り”で、女性を草むらに連れて行って…」

満州での開拓生活と、この厳しい逃避行の中で、巻口さんは3人の幼い弟を失いました。

柏崎から海を渡った200人余りの開拓団のうち、半数以上が飢えや病気などで現地で命を落としたとされています。

終戦の年、10歳だった巻口さんは、18歳で帰国を果たすまで中国で過ごしました。

豚の世話に野菜売り、木の伐採まで働きづめの生活を送りました。中国での名前ももらい、"中国人として”生きる覚悟もしたそうです。

巻口弘さん(90)
「やっぱり生きるがために。現実はつらいんだろうけれど、気丈に自分を生かしていかなければならない、やることやっていかなければならない。そういうことに自然になりますよ。もう理屈抜きですよ。時代がそうさせる」