戦後80年プロジェクト「つなぐ、つながる」です。80年前の長崎の原爆で顔に大やけどを負いながら、亡くなるまで被爆体験を語り続けた吉田勝二さん。「二度と自分のような経験をさせたくない」。勝二さんの思いは、息子の尚司さんに受け継がれています。

吉田尚司さん(63)
「(父は)もう焦げてますよね。良く生きてたなって」

父は原爆で大やけどを負いました。吉田勝二さん(被爆当時13歳)。

被爆者 故・吉田勝二さん
「(私も)皆さんのように可愛い可愛い少年だったんです。キムタクは卒業して、キンキキッズ。13歳の少年7人が一発の原爆で40数メートル飛ばされ、即死はしませんでした。今までの可愛い面影はどこへやら、本当に化け物ですね」

勝二さんは、30歳で結婚、2人の男の子に恵まれました。子どもが大好きな人だったそうです。

「二度と自分のような経験をさせたくない」。被爆から40年後、子どもたちに平和の尊さを訴える語り部活動を始めた勝二さんは、2010年、78歳で亡くなりました。

尚司さんは父が被爆当時、通っていた県立長崎工業学校があった場所に立つ、長崎南山高校で英語の教師をしています。

吉田尚司さん
「(父は)若い頃はキムタクみたいだったんだって言って、外国人の時にはディカプリオみたいだったんだって。最後のしめの言葉はあれです。『平和の原点』は、あれで終わる」

被爆者 故・吉田勝二さん
「(平和の原点は)人間の痛みがわかる心を持つこと」

被爆80年の今年、吉田家が檀家を務める寺で、勝二さんの紙芝居を披露する朗読会が初めて開かれました。

紙芝居
「僕の顔をみた子どもは急に泣き出してしまいました。そして、僕は自分の顔が子どもが泣き出してしまうほど怖い顔なんだと、またショックを受けてしまいました」

吉田尚司さん
「(父は)死んでも、平和のために働いてる。区切りの年だからとか、8月9日が来たからじゃなく、日々に平和を訴えるのが大事」