広島に原爆が投下されてから、きょうで80年。93歳の女性は、原爆で失った家族や多くの仲間の記憶を母校の高校生たちに繋いでいます。

けさ行われた県立広島第一高等女学校の追悼式。この学校では、生徒と教職員301人が原爆で命を奪われました。

当時2年生だった河田和子さん(93)もまた、爆心地から2.5キロ離れた飛行機工場で被爆しました。

河田さんはあの日の朝の情景を今も鮮明に覚えています。

河田和子さん
「空襲警報解除なのに、なぜ飛行機雲が?真っ青のきれいな空に一機。おかしいねと言って、みんな窓から離れた途端、オレンジ色の閃光が走った。危機一髪。(窓の外を)見ていたら大やけど」

自宅は爆心地から500メートルの大手町にあったため、河田さんは市外の疎開先へ避難。そこで偶然、外出していて無事だった母親と再会しますが…

河田和子さん
「『生きてるからうれしい』という感情は起きなくて、『ああ、母がいるわ』って」

自宅にいたはずの父親と叔父を捜すため市内中心部に入ったのは翌日のことでした。

河田和子さん
「道路には足の踏み場もないくらい遺体があった。(遺体を)またいで通る。今ならできないけど平気で。なにも怖さを感じない。13歳ですよ」

家族を捜し歩き1か月経ったころ、被爆間もない広島を昭和の三大台風の一つ、「枕崎台風」が襲います。

台風が去ったあとすぐ、自宅があった場所を訪れると、すべて流された跡に2人分の骨が残されていました。

河田和子さん
「骨がふたつ、ちゃんとあった。持って帰って弔った日、私と母は抱き合って、初めて泣いて、泣いて過ごした」

亡くなった仲間を思うあまり、80歳を超えるまで体験を語れなかったという河田さん。しかし、原爆について学びたいという高校生の熱意に動かされ、語り部を続けています。

皆実高校 生徒
「被爆された当日とその後について」
河田和子さん
「(被爆者は)見るに堪えない哀れな姿で、目も飛び出し、口も腫れあがり、顔も膨らむだけ膨らんで」

今を生きる人たちに、河田さんは声を繋ぎます。

河田和子さん
「戦争なんて絶対に起こしてはならない。これは私の絶叫です。『戦争は絶対悪』だと、私はずっと叫び続けている」