長崎市に原子爆弾が投下されて80年。NBCでは市民が受けた被害を共有し二度と戦争を繰り返さないように8月9日までシリーズ企画「NOMORE…」を連続展開します。今回は今年の平和祈念式典で被爆者代表「平和への誓い」をつとめる西岡洋さんの思いです。

東京生まれ、長崎育ち、西岡洋さん、93歳です。
西岡さん「東京生まれってことになってますけど、どっぷり長崎ですよ私は。じげもん(笑)」

長崎市の磨屋(とぎや)国民学校出身。

成績優秀で「磨屋の神童」と呼ばれる存在でした。母親も英語が堪能だった西岡さんは特に語学が好きで、長崎英語伝習所を起源とする旧制県立長崎中学校に進みます。

軍人を志す中学2年生、8月9日は学校の薬品室にいました。

爆心地からおよそ3.3キロ。

西岡さん「とんでもないですよ。一瞬光のだばーとつかったような…。ピカー!ってきたけど何にもないんです。あれー?と思って…あいつは慌てもんで伏せよったばいって言われるのがね恥ずかしいなーと思って起き上がったらバーと爆風がきた」
友達の下敷きになった西岡さんは無傷。どの人も「近くに爆弾が落ちた」と叫んでいましたが周囲に火の手はなく遠く浦上で巨大な火柱が上がっていました。

翌10日、市内の中学校へ救援に行くよう告げられます。
西岡さん「靴はいてる人間5人ほど選ばれましてねスコップを持って、スコップですよ。中町の天主堂通って駅前まで…これはもうスコップどころじゃどうしようもないということが分かってきたわけですね」
爆心地から800メートル県立瓊浦中学、今の長崎西高校で西岡さんが見た光景。

西岡さん「瓊浦中学は完全にびっしゃげて積み木を壊したように焼けてはなかったんですけどね。至る所に死体があって生徒が崩れ落ちた校舎の中に死体になってある。あの頃の少年は胸に名札をつけていた。分かるだけそれを書き留めましてね。不思議なもんでね遺体を見ても何にも感じないんです。可哀そうだとも思わない、こんちくしょうアメリカのやつとも思わない。あの感情ってすごく不思議ですね」

生き残ったのはわずか数人という現場でした。泣きもせず、淡々と名前を書き留めた13歳の少年、今も同じ場所にかかる「稲佐橋」でのできごとです。
西岡さん「けが人だか何だか知らんけどいっぱい伏せてたの。カンカン照りの中でね横になってうずくまったりして、水水って…。私は絶対にあげなかった。こんな水あげたらね自分が死ぬばいと思ってどんなにしてもあげなかった」

東京の大学へ進学し、商社マンに。語学力を活かし対米貿易などに関わりました。アメリカでは被爆講話をしたこともあります。でも「あること」をきっかけに原爆の話題を避けるようになりました。

西岡さん「何かの話のついでですよ、『長崎で僕は原爆にあった』と、そうしたらそのアメリカ人が『そうだったか、うわー申し訳ない』もうね僕はそんなつもりで言ったんじゃない、それ以来、アメリカ人の前では原爆の話絶対すまいと。他のアメリカ人だったらどうだったかは分かりませんよ。あーこんなこと思わせる付き合い方しちゃいかんと。それ以来話したことはないです」

あの日から80年。西岡さんが住む神奈川県では戦争の記憶を後世に伝えていくため去年、AIを使った「語り部」プロジェクトをスタートさせました。

第一弾は西岡さん。被爆証言と130に上る質問への答えが収録されました。

「戦争を経験していない若い人について意見はありますか?」

画面の中の西岡さんに話しかけるとうなづいて答えてくれます。

西岡さんの妻・佳子さん「これがね収録の時の、丸々二日間。一年一年衰えていくでしょ。使命感程あるか分からないけども知ってることは話して役に立つんだったらこれまで生かさせてもらった意味があるんじゃないのって話は家族でしてるんですけどね。だから家族全員でね参加するんですよ。全部で20人」
子ども4人、孫10人へつながれている命。

今年の被爆者代表「平和への誓い」西村洋さん(93)「どんだけの力になってるのかなって思う時あります。原爆持ちたいなと思ってる原爆希望国が多い。分かります本当、こんなに相手に脅威を与える兵器ってないです。脅威を無くせってわけにはいかんし、そんなこと言ったって無理だから絶対に使わせないと。何となればこんな被害があるということだけは私が元気なうちは伝えていきたいなと思ってます」
被爆者代表「平和への誓い」過去最多の国と地域が参列する見込みの今年の式典で
、西岡さんは「どんな理由があっても核兵器は使ってはならない」と訴えます。