遺された家族は生きていかにゃあいけん
その願いは叶いませんでした。サイパン陥落の3か月前…1944年4月。義郎さんは新玉丸【画像⑩】という輸送船でサイパンを出航、メレヨン島に向かっていました。しかし…4月8日。午前2時15分。敵艦の魚雷を受け新玉丸は大火災に・・・

(玉野義文さん)
「お袋からはもうお父ちゃん死んだよと」

船が魚雷を受け、亡くなりました。37歳でした。その後、同じ船に乗り生き残った人から、沈みゆく船から出ようとしなかった義郎さんの最期を聞いたといいます。
(玉野義文さん)
「(仲間が)『艦長室に行って逃げましょう』と言ったらしいんですけど、ドアを固く閉めて艦長と自分の親父は出てこなかったと。だいぶ呼んだけども出てこなかった。務めと思ったんじゃろう」
国のために務めを果たすことが当然だった時代。それは生きて帰ることよりも大切だったのか…
(玉野義文さん)
「恰好悪くても何かの拍子に生きていたらええのにな」
「平和を享受できるのも英霊のおかげというのをよく挨拶でされます。私が思うのは英霊のおかげは確かにあるけど、遺された家族は生きていかにゃあいけんでしょう。その人たちの努力たるや大変だと思うんですね。死んだらそれでどうしようもないんですけど。生きていくためにどれだけ努力したか」
