遺骨を探し続ける秀平さん ロシア・フィリピン・パラオにも行く理由
1952年から始まった、国の海外での遺骨収集事業。秀平さんは1996年から30回以上、この事業に参加してきました。
父親と同じ、戦没者の遺骨を一柱でも多く遺族のもとに返したい…。ロシアやフィリピン、パラオなどを訪れ多くの遺骨と向き合ってきました。

(秀平良子さん(84))
「みなさん安らかな顔で出てこられる人は一人もおられません。悲しい顔悔しい顔。日本に帰りたかっただろうに」
「日本にもし戦争がなくって、日本に帰ってこられたら、第二の人生いろんなしたいことが、いっぱいおありになった人たちが埋葬されているわけなんです」
声なき遺骨に、秀平さんは耳を傾け問いかけます。
(秀平良子さん(84))
「空の色は80年前と変わりませんかって」
「どういう思いで、私たちに何を語りかけてくれるんですかって。だれに会いたいですか。帰ってお母さんですか、妻ですかって。何が言いたかったですかっていうのは、その人一人ずつみんなに語りかけています」

「遺骨収集事業」80年経ち大きな課題が
国の事業による遺骨の収容数はこれまに約35万柱。しかし遺族の高齢化などにより収集のペースは年々減少しています。
2016年には、遺骨収集を国の責務とする法律が成立しましたが、コロナ禍で事業は一時停滞。昨年度収容された遺骨は204柱に留まっています。
(秀平良子さん(84))
「半分しか帰って来ていないわけなんです。いくら私たちが努力しても、もう100年経っても全ては帰っては来られないだろうなって思っています。
「だけど、一体残らず帰ってこられて、初めて私にとっては『終戦』ではなく『戦後』になるわけです。まだいまは『終戦』なんです」
