第二次世界大戦における、海外での日本人の戦没者は約240万人。そのうち日本に帰還できていない遺骨は、およそ112万柱にのぼるとされています。
岡山県笠岡市には、今も帰らぬ父の遺骨を探し続ける女性がいます。
戦後80年 いまだニューギニア島から帰らぬ父の遺骨
笠岡市に暮らす、84歳の秀平良子さん【画像①】。墓前で、父親への深い思いを込めて手を合わせます。
納められているのは、10年前に亡くなった母親の遺骨。父親の遺骨は戦地から戻って来ていません。

(秀平良子さん(84))
「『遺骨収集にまた行ってくるよ』というのと、『家族がみんな元気で過ごしています』というのと。暑いから熱中症にかからないようにね。石も熱くなってるよ」
1943年。父親の清さん【画像②】は、秀平さんが2歳のとき海軍に入隊し、翌年には激戦地・パラオ諸島などに上陸しました。
そして1945年3月、現在のインドネシア西部・ニューギニア島マノクワリの野戦病院で、脚気・アメーバ赤痢を発症し、30歳で亡くなりました。
子煩悩だった父「おんぶして街じゅう見せて歩いた」

(秀平良子さん(84))
「父は男兄弟ばかりだったので、女の子が生まれたのがすごく嬉しかったらしくて、おんぶして笠岡の街をみんなに見せて歩いていたような、子煩悩だったらしいです」

戦争で父親を亡くし、母親に育てられた秀平さん。
(秀平良子さん(84))
「私たちは、父の思いを母が受け止めてくれて、大きくしてくれたわけなんです。こうして早く夫と別れた妻は、生活するのにも子どもを大きくするのにも、なんにもないわけです」
「母は、亡くなる寸前に『向こうでお父ちゃん待ってくれていたら褒めてくれるかな、よく頑張ったって褒めてくれるかな』って言いながら、あの世へ行きました」
「父の骨の小指一本でも、母と一緒のお墓にいれてあげたい。母の思いをくみ取ってあげたいというのがあって、それもあって遺骨収集にいっています」
