慕った姉は疎開先の「金川あたりで死んだ」

岡山空襲の悲惨さを多くの人に知ってもらいたい。辻野さんは語り部として活動しています【画像⑤】。この日は、自らが空襲に遭った東山公園で、当時の生々しい記憶を語りました。

(辻野喬雄さん(92))
「あっちの木の根へ伏せて、そうしたら右側で『ドカーン』と音がしたんです。これは近い、1メートルくらいだなと感じた」

【画像⑤】

岡山空襲では約9万5000発の焼夷弾が落とされ、当時の岡山市街地の63%が焼失しました。あれから80年。空襲直後と現在の岡山市中心部を見比べてみると、焦土と化した街が、復興を遂げた様子が見て取れます【画像⑥】。

【画像⑥】

しかし、爪痕はいまも日常の中に色濃く残っています。【画像⑦~⑨】

【画像⑦】
【画像⑧】
【画像⑨】

(南方れんが塀 岡山城石垣岡山城近くの木)
長い年月を経ても消え去ることのない空襲の爪痕は、辻野さんの心にも残っています。空襲で足をけがした姉の昭子さんは、すぐに現在の吉備中央町に疎開。それから約2週間が経ったある日のことでした。

(辻野喬雄さん(92))
「『あごが動かなくなった、すぐ来てくれ』と(電報で)聞いて、父は『これは破傷風だ』と言って迎えに行って。途中で動けなくなって痙攣を起こして、金川の辺りで死んだ」
「それはもう忘れるものではないです。うちは兄弟仲良かったからみんな。いつも兄弟を忘れることは無いです」

【画像⑩】