去年ノーベル平和賞を授賞した日本被団協の代表委員で、授賞式で演説した田中煕巳さんの被爆体験です。13歳のときに長崎で被爆し、親族5人を亡くした田中さんが核兵器廃絶の運動を担う若い世代に求めることとは。

田中煕巳さん93歳。旧満州の出身で、5歳の時に、軍人だった父親が病死したため、親類がいた長崎に移り住みました。戦況が悪化していた1945年、田中さんは旧制長崎中学に入学します。

(田中さん)「一度は4月に空襲があったんですよ。授業の真っ最中にね。大波止あたりからやられて水柱が火柱が僕の校舎から。ぼくは授業聞かないで外見てたんですよ。窓から。そしたらウワンウワンって火柱が上がったのをね、突然見て先生に爆撃みたいですって言って、これは爆撃だなとか言って一斉に全部山の中に逃げるとそんなことがありましたけども」

8月9日、当時13歳の田中さんは爆心地から3・2キロ離れた中川町の自宅で被爆しました。

(田中さん)「本読み続けるか、もうやめるかと思ってた瞬間ですね。後ろ向いた直後ぐらいですね真っ白なったんです。爆発の光、もう強烈な光でしたね、今でも忘れませんけども。伏せた直後に記憶を失っている。気がついたら大きなガラス戸が私の上に乗っかってた割れないで、それが私は今でも奇跡だと思う。」

被爆から3日後、田中さんは母親とともに親類の安否を尋ねて爆心地近くに入ります。

(田中さん)「峠から見たら何もない、浦上病院も滅茶苦茶壊れてましたから、すごい爆撃だったんだなと思ったんですけども、下り始めてまわりの民家は全部焼けてますしね、民家の中で助かっている人はほっぱらかされているし、焼けてもそのままほっぱらかされているし、じいさんが大やけどで瀕死の状態だった。しゃがんでいました。本当に泣けたのはおばさんの遺体を、骨を拾うときですね。かなり時間がかかりましたけど、骨を拾うようになるまでには上に焼け残っているのを取り除いていくじゃないですか。そしたら骨が見えるわけですよ、遺体の骨が。その時ちょっと私は耐えられなかったですね。」

伯母など親族5人を失った田中さん。9月に学校で同級生たちと再会した時のことが忘れられないといいます。

(田中さん)「クラス集まって報告会ですよ。1人なんかは浦上地区に疎開していて、警戒警報になった状態でうちを出ないと浦上から電車に乗れない場合が多いので、歩いてきてたというわけです。諏訪神社あたりまできたときに爆発してだからその間に別れてきた家族は全部死んで、おふくろとおねえさんと妹とそういう報告をするわけです。もういないと言って。そういう報告を聞いてたら、すごく大変でしたね。」

日本被団協のノーベル平和賞受賞から半年。田中さんは核兵器廃絶にむけた若い世代の取り組みに物足りなさを感じています。

(田中さん)「思ったよりは変化はないな。私は本当は聞いて欲しいのはどうやったら運動を広げていけるかというのをみなさんの知恵を出してくださいということを言いたいんですと。被爆者がこんなこと言ってますよというだけでは駄目なんです。自分たちはどうするかというのを考えてくれということを言ってるんですから。」

田中煕巳さんが代表委員を務める日本被団協は今月19日に定期総会を開き、被爆80年にあたって「体験を次世代に引き継ぐために若い人たちとともに取り組んでいく」などとする総会決議を採択しました。