「生き残った私が証言しないで誰がする」

田中さんの実家があった周辺=1945年10月撮影 (Nichiei eizo/RCC)

1945年8月6日午前8時15分─。たった1発の原子爆弾は思い出の詰まった場所を消し去りました。

田中さん自身は、爆心地から2・3キロで被爆。引っ越しに伴い転校した小学校へ登校する途中でした。

けがはしましたが、命は助かりました。しかし、中島地区にいた人たちは…。

田中稔子さん
「私の同級生は、幼稚園にしろ生存しているっていう情報がないんですよね。一人も生存情報がないんです。80年経って『あの人が生きていた』って話は聞かない。私は間際に転居した。そのおかげで生き残ったということは、私が証言しないで誰がするんだと」

田中稔子さん

田中さんは、70歳のときから自身の体験を国内外に伝えるようになりました。これまでに訪れた国は90カ国以上にも上ります。
ロシアによるウクライナ侵攻をはじめ世界情勢は混迷を極め核兵器の使用が現実的な危機として存在しています。焦燥感も感じているといいますが…。

「被爆の惨状を伝えていく、下手な言葉でも精一杯、愚直に伝えていくしかない。とにかく自分が覚えていることを話して、少しでもですね。それが抑止力になるか分かりませんけれども、するしかない」

被爆から80年。今回の天皇皇后両陛下の訪問が、もう一度失われた町に思いを馳せ、核兵器廃絶を考える一つのきっかけになってほしいと願っています。