「日本最後の晩をうちの旅館で過ごしていた」

多くの兵士が広島から戦地へ送られた

軍都でもあった広島は、各地から招集された兵士が宇品港から戦地に向かっていきました。その際、宿泊していた旅館の一つが田中さんの実家でした。

幼かった田中さんは、宿泊した兵士からもよく可愛がられたといいます。

田中稔子さん
「兵隊さんにとっては、日本最後の晩がうちの旅館だった。ちょうど私と同じぐらいの子どもを置いてきたりしているんですよ。そうすると自分の子とどもと、重なるんでしょうね、すごくかわいがってくれた」

しかし、その多くの兵士は二度と日本の地を踏むことはありませんでした。

戦況が悪化すると、田中さんの「遊び場」にも変化が…。幼稚園にあった鉄棒やブランコなどの遊具は武器の材料にするため軍に没収されました。

幼少期の田中さん

田中稔子さん
「園庭にひょうたん池っていうのがあって、そこにカメがいた。それを見て静かに遊んでいた。騒いで遊んでいると、その当時は怒られました」

1945年には、空襲に備えて防火帯を作るため実家の旅館は立ち退きになり、親戚の借家へ引っ越しました。

田中さんは小学1年生…。原爆が広島に投下される1週間前のことでした。