戦後80年プロジェクト「つなぐ、つながる」です。長崎に原爆が落とされた1945年8月9日、いち早く長崎に向かったひとりの詩人が残した記録が日本で最初の原爆報道記録として注目を集めています。被爆地で何を見たのでしょうか?

春の彼岸に墓参りに訪れた福岡市在住の東昭徳さん(82)。墓に眠るのは、父親の潤さんです。

東昭徳さん
「(父は)若い時からなんですけど、文学の方の活動に入ってまして、本人は詩人ですね」

フランス文学を専攻していた東潤さん。火野葦平らとともに執筆活動に励んでいた潤さんは太平洋戦争が激しさを増す中、福岡市にあった西部軍報道部に文筆家として徴用されます。

1945年8月9日。長崎に原爆が投下されたわずか2時間後に画家の山田栄二、写真家の山端庸介、そして、詩人の東潤は原爆を報道・記録するという日本で最初の任務を命じられました。

その記録の原本が6年前、東さんの自宅で見つかったのです。

「目も当てられぬ程に大火傷を負った様々な負傷者が車内にあふれて、まさに鬼気せまるその呻吟や歔欷の声が、ひしひしと私たちの肺腑をえぐり惨たんたる憂愁をあおるものがあった」

すれ違う上り列車を見て不安に駆られる中、出発から12時間後に長崎県の道ノ尾駅に到着。

「死者のすべてが虚空をつかんだ幽霊の姿で焼けている。もはやこの惨状に対して、あらゆる語彙がきょう限り私にとっては無力となった」

東昭徳さん
「文章の中にも、ところどころに『これは絶対世に出さなくちゃいけない』『誰か何とかしてくれないかな』というつづりもあったからですね。それだけ心の中にしまっておかないといけない立場というか、表に出せなかった苦痛があったのかなと」

そして今年3月、新たに父・潤さんの手記が見つかりました。終戦から7年後に書かれたものです。

「ようやく講和会議にまではこぎつけた。けれども世界は二つに割れて冷たい対立ははてなく続き、吾らは一応、その片側に附いたにすぎぬ。平和を念ずる長崎の鐘は今年で七たび鳴りひびく…」