戦後80年を迎える今年、当時を過ごした人たちの思いなどを未来につなぐ特集をお伝えしています。

長崎県波佐見町では宿舎として使われていた学校が機銃掃射を受け当時15歳の女子学生が亡くなりました。

福岡市に住む遺族は「悲しむことはできなかった」と戦時中の異様な空気について証言します。

「焼き物の里」長崎県波佐見町で起きた悲劇

RKB 今林隆史 記者
「焼き物で有名な長崎県波佐見町の上空です。今はのどかな風景が広がるこの場所も80年前は戦場となりました」

アメリカ軍の戦闘機が1945年7月31日に撮影した映像。
波佐見町で機銃掃射を行う様子が映っていました。

画面中央に見える1本の木。

今もある銀杏の木です。

その脇に建つ「銀杏屋商店」には銃撃の痕が残っています。

銀杏屋商店 松本德義さん(82)
「銃の痕はそこの下の穴とサッシの上ですね。3か所」
「家政女学校で1人亡くなったんでしょ。その時の」

機銃掃射の標的になったのは現在役場がある場所に建っていた波佐見高等家政女学校。

学徒動員された生徒たちが宿舎として使っていて、当時15歳の永嶋道子さんが唯一犠牲になりました。

福岡市中央区に住む永嶋文雄さん93歳。

5人兄弟の中で特に親しくしていたのが2つ上の姉・道子さんでした。

永嶋文雄さん
「通知を受けて両親が波佐見に飛んで行った」
「畳の部屋に寝転んで本を読みよった。うつぶせになって本を読みよったら飛行機が飛んできてやられたので、ここ(肩)から入ってお尻に抜けた」

父親の勇雄さんは日記に心情を記していました。
「可哀想にも不運にも、戦争の犠牲となった事を知った。云い様も無い此の悲しみと怒り、何処の誰に訴える可きか、唯声を呑むのみであった」

当時は家族の死を悲しむことができる空気ではなかったということです。

永嶋文雄さん
「当時、日本はおかしかったんですよね。戦死したら名誉の戦死で、戦死した人におめでとうございますっていうぐらいでどね。ちょっとちょっと考えられんね死んだ人に家族にも『名誉の戦死おめでとうございます』って」

学徒動員され海軍の工場で働いていた道子さん。

疎開した先が波佐見町でした。

永嶋文雄さん
「波佐見はなんか特に目立ったあれはない普通の田舎村やからね。アメリカ軍がなんで来たかが分からんですね」