■名古屋城は"誤爆”だった…? 街を襲った1万トンの焼夷弾

エレベーターで6階へ上がり、階段でいよいよ最上階の展望室へ。

窓からは高層ビルが立ち並ぶ名古屋の街並みが一望できます。

(大石)
「名古屋空襲の時はどんな状況だったんでしょうか?」
(学芸員・原さん)
「もう焼け野原という状況ですよね。中区新栄から中村区の名古屋駅が見えていたという人もいましたから、それぐらいここは焼き尽くされた」

太平洋戦争末期、市街地への無差別空襲をおこなったアメリカ軍。そこで使われたのが「焼夷弾」です。中には6角形の細い筒が複数入っていて、上空1500メートルで一斉に分散。

着弾すると、油とガソリンを混ぜた、ゼリー状の火薬が激しい火災を引き起こしました。簡単には消すことができず、日本の木造家屋を焼き払うために開発された兵器です。

63回行われた名古屋空襲では実に1万トンが落とされ、80年たった今も、市内中心部から不発弾が見つかります。

5月14日の空襲で名古屋城天守閣も焼け落ちましたが、「誤爆」だったという説も。戦時中、アメリカ軍が作った文書には、名古屋を狙った作戦の詳細が記されています。

まずアメリカ軍は、名古屋市内を2区画にわけました。
1945年3月に、人口密度の高い中区や中村区の「ゾーン1」を空襲。そして2か月後の5月にその周辺の「ゾーン2」に標的を移したのです。

80年前の5月14日は、「ゾーン2」の名古屋市北部が空襲を受け350人が死亡、2万戸の家が焼かれました。しかし、この空襲計画の図には中心部に”空白地帯”が。

今の地図に重ねると…「名古屋城」の場所です。
周囲に火災を広げない名古屋城は、燃やしても意味がないとアメリカ軍の攻撃リストから外されていたのです。

名古屋空襲について研究するピースあいちの西形久司理事は、こう分析しています。

(西形さん)
「その日の風向きによって 煙が名古屋城の上空を覆ってしまったわけです。どこが名古屋城で、どこがそうじゃない市街地なのかというのが、上空から煙に覆われて全く見えない状態だったんです。だから後から来た米軍は、適当にパラパラっと焼夷弾を落としてしまった」

“誤爆”ともいえるかたちで焼かれたと考えられる天守閣。