《ロッキード事件の捜査、裁判記録には、「P3C」の姿はほとんど見あたらない。
田中角栄や丸紅側の起訴事実は、あくまで「トライスター」1本に絞られている。
しかし、検察は当初、「P3C」を含めた捜査方針を取っていた》

《1976年5月22日、検察が米国に「コーチャンの嘱託尋問」を正式に要請した時点では、「P3C」も捜査対象に含まれていた。
それが、7月28日に「嘱託尋問調書」を受け取るまでのわずか2カ月間で、「P3C」は跡形もなく消えた》

石井は、米国がコーチャンの「嘱託尋問調書」を引き渡す条件として、「P3C疑惑の封印」を要求したのではないかと分析する。

《日米両政府とロッキード社の協議によって、「日米安保条約」や防衛体制を揺るがしかねない軍用機の「P3C」の問題を故意に隠し、比較的ショックの少ない「トライスター」だけが追及対象となった。
アメリカ側は、日本にコーチャンの「嘱託尋問調書」を引き渡す条件として① 最高裁による「刑事免責」の保証 ② 対潜哨戒機「P3C」に関する非公開と捜査の中止ーーこの二つを求めた可能性が高い》

石井の見立ては、こう続く。

《ロッキード事件の真の本質は、日本政府の「P3C」調達をめぐる日米両国関係者による
「巨大な利権スキャンダル」だったのではないか》

石井は、この背後には、田中を危険視していたキッシンジャー国務長官と三木武夫総理の思惑が絡んでいたと指摘する。

《彼らの意向によって、「事件のターゲット」は「P3C」から「トライスター」に、「真の主犯」は「中曽根康弘」から「田中角栄」へと、すり替えられた》

石井はさらに、この事件は「P3C」に疑惑が及ばないように、田中角栄1人に罪を負わせたと主張する。

《実際、「P3C」の工作資金を動かしていたのは、ロッキード社の秘密代理人・児玉誉士夫だ。児玉と深い関係にあったのは、岸信介であり、佐藤内閣で防衛庁長官を務めた自民党幹事長・中曽根康弘であって、田中角栄とほとんど繋がりはなかった。もし「P3C疑惑」が真正面から追及されていれば、防衛庁が絡む「防衛汚職」に発展し、「日米安保体制」を根本から揺るがす国家的スキャンダルとなっていたはずだ。しかし、それは何としても回避しなければならなかった》

田中角栄に一審判決が言い渡された後、石井は田中と交わした会話を忘れられないという。

《「田中判決解散」と呼ばれた1983年の総選挙。私は落選し、意気消沈していた。そんな私を励まそうと、オヤジ(田中)は越後の郷土料理でもてなしてくれた。東京・目白の田中邸の茶の間で、食事をしながら2人きりで語り合っていたとき、オヤジはふとさらりと、しかし意味深長にこう言った》

『P3Cのことは墓場まで持っていく。』

石井はこの言葉の重みを噛みしめる。

《その言葉には同じ1918年生まれで、なおかつ『初当選同期組』だった中曽根康弘に対する男の友情を感じましたし、オヤジの信念がひしひしと伝わってきました》

田中角栄の側近だった元参議院議員・石井一
防衛庁長官時代の中曽根康弘(第3次佐藤内閣 1970年)

コーチャンが泣きついた児玉――その「電話」の相手とは

中曽根康弘がロッキード事件に関与していた疑惑は、「P3C」だけではなかった。
全日空への「トライスター」納入をめぐってもコーチャン副会長から、依頼があったことが「コーチャン回想録」や「嘱託尋問」の中で語られている。

1972年10月5日、コーチャンは前日、田中角栄と親しい政商・小佐野賢治と面談していた。そこで小佐野が告げたのは、衝撃的な情報だった。

「日本政府の行政指導で、ロッキード社の『トライスター』は『全日空』ではなく『日本航空』が購入することになった。全日空はダグラス『DC-10』を導入する」

要するに、トライスターの納入先が突如として「全日空」から「日本航空」へと変更されたというのだ。

コーチャンは驚愕する。そしてこう思ったという。

「これは陰謀ではないのか」

小佐野は「日本航空は全日空より大きな会社だから、不満はあるまい」と話したが、もちろん、コーチャンは到底納得できない。

《「日本航空」はすでに主力機を「ボーイング747」に決めており、そもそも「トライスター」が搭載するロールスロイス製エンジンを好んでいないと聞いていた。
このままでは、「日本航空」もトラスター購入を見送ると思った》
(「コーチャン回想録」より)

コーチャンは滞在先の「ホテルオークラ」を飛び出し、銀座四丁目にある児玉誉士夫の事務所に駆け込んだ。泣きつくコーチャンを前に、児玉は秘書の太刀川に「中曽根に電話してくれ」と指示した。
太刀川はかつて中曽根の書生を務めていた人物だ。児玉は受話器を受け取り、コーチャンの窮状を伝えた。

児玉は15分以上の通話を終え、コーチャンにこう告げた。

「中曽根があす一番にこの件で、努力をしてくれると約束した。明日には上手く行っているだろう」

そして翌日昼、児玉の通訳・福田太郎を通じて、コーチャンに朗報が届く。

「中曽根が転覆に成功した」

その言葉通り、状況は一夜にして覆され、ロッキード社と「全日空」の交渉が再開された。
つまり、中曽根が動き、わずか一晩で「トライスター」の売り込み先は、「全日空」に戻されたのだ。
コーチャンはこの出来事を振り返り、こう語っている。

「長い会社生活の中でも、最大の危機に見舞われた日だった」

この話が事実ならば、中曽根はロッキード社の危機を回避してくれたコーチャンの「恩人」ということになる。
そして、同社から何らかの報酬を受け取っていても不思議ではない。

この時期、中曽根は別の疑惑も取り沙汰されていた。
福井県の「九頭竜ダム建設汚職事件」をめぐり、児玉との関係を告発する『権力の陰謀』(緒方克行著、現代史出版会 1976年)が出版され、話題となっていた。

そんな中、中曽根は1977年4月13日、自ら申し出て国会の「衆議院ロッキード問題調査特別委員会」の「証人喚問」に臨んだのである。

「トライスター工作」に関する児玉からの電話の有無、一転して国産化が「白紙撤回」された「対潜哨戒機」など、3時間半にわたる厳しい追及が続いた。

しかし、中曽根はすべてを否定した。

「そういう電話を受けたことは全然ございません」
「私のやってきたことは間違っていない」

ただひとつ、東京地検特捜部から「参考人」として2回事情聴取を受けたことだけは否定しなかった。

中曽根は「証人喚問」によって、永田町では「みそぎが済んだ」「免罪符」と受け止められた。
そして田中派の支持を受け、5年後の1982年11月、ついに内閣総理大臣に就任。中曽根内閣は高い支持率に支えられ、長期政権を維持した。

中曽根は国鉄の分割民営化や専売公社の民営化を推進し、レーガン大統領との「ロン・ヤス」関係で日米関係を強化するなど、その在任期間は佐藤栄作、吉田茂に次ぐ戦後3番目の長期政権となった。

しかし、ロッキード事件の「児玉―中曽根ライン」をめぐる疑惑は、決して払拭されたわけではない。
捜査や裁判で解明されたのは、「丸紅ルート」という一部の構図に過ぎなかった。
事件当時、沈黙を貫いていた関係者たちが、時を経て少しずつ口を開き始めた。
長く閉ざされていた闇に、少しずつ微かな光が差し込もうとしていた――

(つづく)

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TBSテレビ情報制作局兼報道局
「THE TIME,」プロデューサー
 岩花 光

◇参考文献
堀田 力 「壁を破って進め 私記ロッキード事件(上下)講談社、1999年
立花 隆 「ロッキード裁判傍聴記」全4巻、朝日新聞社、 1981〜85年
立花 隆 「論駁 ロッキード裁判批判を斬る」全3巻、 朝日新聞社、1985-86年
奥山 俊宏「秘密解除 ロッキード事件」岩波書店、 2016年
真山 仁 「ロッキード」文藝春秋、2021年
春名 幹男「ロッキード疑獄」角川書店、2020年
石井 一 「冤罪 田中角栄とロッキード事件の真相」産経新聞出版、 2016年
宗像 紀夫「特捜は『巨悪』を捕らえたか」ワック、 2019年
NHK 「未解決事件」取材班「消えた21億円を追え」朝日新聞出版、2018年
A.C.コーチャン/村上吉男訳 「ロッキード売り込み作戦」朝日新聞社、1976年
大下 英治「昭和、平成震撼『経済事件』闇の支配者」青志社、2014年