県警の災害警備隊長が寄せた信頼

長崎県警島原警察署の災害警備隊長だった牟田好男警視は、非常に立派な警察官でした。国道を通行止めにすることは、住民生活に直結するので、どうしたらいいかを非常に悩んでいました。太田先生は牟田隊長に、こう話したと言います。
・本来は終日通行止めが望ましいと思っている。
・火砕流の発生時間は昼夜関係なく、いつ発生するか誰にも分からない。
・行政の判断で通行を一定時間解除していることでもあり、危険地帯を一刻も早く通り抜けてもらいたい。
※『太田一也教授退官記念文集』(1999年)所収、「前線にて」(牟田好男筆)より。
どう判断するかを、真剣に牟田隊長は考えて毎日のように被災地を巡視していました。以前の土石流で溝が掘れてしまって、ここに流れが来やすくなっている。雨が降ったら今回は間違いなく土石流がここに来るだろう。その前には、この辺りまで水が来るだろう…。
牟田隊長は巡回しながら「ここまで水が来たらもう危険だ」と決めていくのです。牟田隊長の災害警備指揮車に同乗して取材したことがありますが、判断はギリギリでした。先ほど通った場所が、次にはドーンと土石流でやられていました。
牟田隊長は、太田先生の意見を踏まえ、励まされながら災害警備に取り組んで、在任中に土石流による死者を1人も出しませんでした。牟田隊長は、太田先生に対して非常に感謝していました。太田先生は、そういう学者さんだったんです。
※神戸解説委員長が28歳当時に書いた手記『雲仙記者日記』(ジャストシステム刊)で、牟田隊長の活動を克明に記録している。現在はnoteで全文公開中。
心身とも疲弊した私に太田先生は

僕が島原市に常駐して2年目、1993年はあまりに災害が多く、4月には土石流で400軒の家が一晩で流されてしまいました。家が壊れている現場で取材しました。火砕流も起きて、6月には自宅が心配で見に帰った方が1人亡くなってしまいました。そしてまた土石流。災害が何か月も続くのです。
「災害に負けず頑張ろう」と記事を書いていたのですが「記事を見て『頑張ろう』と自宅に戻った人が、今回の土石流で家を流されたんじゃないか」と考えると、もう苦しくて…。
何のためにこの仕事をしているのかもわからなくなり、心身ともに疲弊してしまいました。そこで、太田先生の研究室に行って「苦しいです。もう、何を書いていいかわかりません」と言ったことがあります。
すると太田先生は「今こそ防災工事を進めるべきだ、と神戸くんも書きなさい。今こそ書くんですよ」と。太田先生は、僕よりずっとつらい立場に置かれていました。太田先生の判断基準がどうなのかを常に問われ、批判も受けていた方ですが、この強さ。地元出身であること、責任感を持った生き方をしていたこと。耐えていたんだと思います。
当時の僕は、太田先生のその言葉を上司に伝えました。上司は、「神戸くん、先生はこの状況でもそう言っているんだ。それを記事にすべきだ」と、上司自ら話を聞きに行き、「太田さんが、今こそ防災工事をと訴えた」という記事を書いたのです。
僕は、自分ではもう書き切れないくらいに疲れていました。その時に太田先生は、尻を叩いてくれたんですね。これは、一生忘れないです。太田先生が言ったことによって、島原市民は励まされ(僕も島原市民でしたが)、助けられ、何とか災害を乗り越えられたんだな、と今回お通夜に行って改めて思いました。

本当に立派な方でした。太田先生と会えたことが、島原市民であった僕にとっても、記者としての僕にとっても、非常に大きなことでした。本当にありがとうございました。
◎神戸金史(かんべ・かねぶみ)

1967年生まれ。毎日新聞入社直後に雲仙噴火災害に遭遇。東京社会部での勤務後、RKBに転職。やまゆり園事件やヘイトスピーチを題材にしたドキュメンタリー映画『リリアンの揺りかご』(2024年)は各種プラットホームでレンタル視聴可。ドキュメンタリーの最新作『一緒に住んだら、もう家族~「子どもの村」の一軒家~』(2025年、ラジオ)は、ポッドキャストで無料公開中。