そこに現れたのは“忠節用水”

(道マニア・髙山英男さん)
「ここは『忠節用水』。自然にできた支流ではなく、人が造った支流」

江戸時代から農業用水として岐阜の各所に張り巡らされていた「忠節用水(ちゅうせつようすい)」。織田信長が戦死した者の子孫を集め、養育した村「忠節村(ちゅうせつむら)」が由来で、村の近くには用水の取水口があったと言われています。

現在では大部分が暗渠になっているこの「忠節用水」の流れを追っていくと、現れたのは「第二樋門」。

水路を辿って進み続けると、途中から暗渠に。岐阜公園や岐阜中警察署前の交差点の近くには、橋の欄干が存在。かつて川が流れていた痕跡が、今も残っています。

また、長良橋通りが交わる「泉町交差点」には、かつて橋があったことを示す「平田橋跡」も。

橋跡の説明書きによると、昭和43年まで存在していたという「平田橋」。交差点を南北に走る「長良橋通り」に、かつて路面電車が走っていたそうで、明治に開業した「名鉄岐阜市内線」が平田橋を渡るルートで運行。しかし2005年、他の交通の障害になり全線が廃止されたとのこと。

「忠節用水」は網の目のように分岐しながら市内に広がっており、交通量の増加や市街化に伴い、昭和40年頃に水路は暗渠化。「長良川」から引き入れた綺麗な用水は人々に愛され、南西に位置する柳ヶ瀬まで続いています。