愛子さんは、大けがをしながらも広島市の郊外まで歩いて逃げました。父親代わりだったおじや、幼いいとこ2人を原爆で亡くしました。


たかみさんは、「何か思い出すかもしれない」と愛子さんの話を繰り返し聞き続けています。


8月には、たかみさんの子どもたちも一緒に、愛子さんが被爆したときの話を聞きました。


長見 たかみさん と 小田 愛子さん
― ばあちゃん、こっち側に傷があったんよね。
「ほうよ。ぐしゃぐしゃだったんよ。ガラスが立ってね。治療しとる軍医さんのところへ行って、外じゃけえね。熱いよ」


「ここへ黄色い粉みたいなのふってやって、ぱっとガーゼ貼ってくれてんよ。ほいで、『はい、次』と言って、帰って。また、明くる日へ行ったら、今度はこれをぱっとはいでんよ。そしたら、ここへうみやらガラスがついて出るんよ」

被爆後は寺町の自宅が焼けたため、市内中心部から離れた親せきの家に身を寄せていました。


被爆者だと一目でわかる顔の傷は、愛子さんの心の傷にもなっていました。

祖母 小田 愛子さん
「わたしはこの傷があるからバラックでも早く立てて、早う広島へ帰りたいと。あのころ、『70年は草木も生えない』とか聞いたけど、もう、どうなっても自分のところへ早く帰ってと思いよったですよ。『うつる』とか、『汚い』とか言われるからね」


「『汚い』とか言われたのは、初めて今、言いました。孫にも言うてない。娘にも言ってない。言いたくないんよね」


たかみさんは、祖母の心の奥にある記憶や気持ちも聞いておきたいと考えています。

孫 長見 たかみさん
「ここは聞いていいかなというのはあるのはありますけど、逆に家族だから、そこはね、遠慮なく聞けるところでもね…」


3人の子どもたちにはまだ難しい話もありましたが、少しずつ、ひいおばあちゃんの話を理解しようとしています。


たかみさんが聞かなければ、愛子さんが語らなかった家族の歴史。ぽつりぽつりと出てくる記憶をたかみさんがつむいでいます。


孫 長見 たかみさん
「これは、いつの話かねっていいながらね、それを全部つなげていかんといけんからね」


祖母 小田 愛子さん
「たいへんなよね。寝とっちゃ、ああじゃったね、こうじゃったねと思い出してね。でも今の幸せが本当、ありがたいです」

たかみさんは、愛子さんの追体験をするように当時の状況を想像するこができるようになったと話します。祖母が話すときの表情や思いをかみ砕いて、小学生にもわかりやすく伝えていきたいと考えています。


孫 長見 たかみさん
「ばあちゃんが伝えたいところをね、ちゃんと…。もしかしたら日本だけじゃなくて、海外の人にも伝える機会があるかもしれんけえね。もう、こういうことがあったら、たいへんよね。二度とあったらいけんね」


祖母と孫の二人三脚で伝える被爆体験。「家族伝承者」を目指している広島県内外の54人は、こうして肉親の記憶を聞き取っています。