突然の被害・喪失という「異境」体験

いつもと違うことは他にもあった。これまで小説家の平野啓一郎氏や、ホスピタルクラウンとして活動する副島賢和氏、医師の故・日野原重明氏ら、比較的、グリーフケアというワードとのつながりが連想しやすいゲストがほとんどだったが、今年、入江さんが招いたのは高野秀行氏だった。高野氏と言えば「謎の独立国家ソマリランド」「未来国家ブータン」などで知られる、辺境ルポで有名なノンフィクション作家だ。「誰も行かないところへ行き、誰もやらないことをする」がモットーで、ユーモアあふれる筆致の高野さんと、犯罪被害者遺族である入江さん、という取り合わせは、初見では少々不思議な感じがした。入江さんからのお誘いもあり、また海外特派員をしていた私にとって高野さんはかなり気になるライターであることもあって、電車を乗り継いで臨場したのだった。

入江杏さん

イベントでは入江さんの語りが終わった後、高野さんが最新作「イラク水滸伝」の取材の際に撮影したイラク南部の湿地帯(アフワール)の貴重な映像や写真を見せながら、自身の混沌とした旅行譚を披露していった。やたら歌の上手い船頭、適当なようでいて最後にはきっちりとした木造船を仕上げる船大工、たくさんの水牛を放牧する男などなど、強いキャラの異人たちが次々に登場、中東担当としてイラクを取材したこともある私は半分共感、半分驚嘆しながらどんどん引き込まれる。高野さんが「鯉の円盤焼き」と命名した名物料理「マスグーフ」の美味さも、南部バスラの生け簀レストランの記憶とともに甦る。

イラクの湿地帯で撮影した映像を紹介する高野秀行さん

そうしているうちに気づいた。入江さんにとって、犯罪被害者遺族になったという経験は、一種、辺境を行くような感覚だったのではないか、と。

突然、慣れ親しんだ日常とは全く別の風景の中に放り込まれ、まるで異国の湿地帯で身の丈よりも高い葦の林をかきわけて小舟で進む時のように、次に何が起きるかわからない心細さを感じながら、刑事や我々マスコミといった、それまで関わることのなかった種類の「異人」たちに出会い、その振る舞いに戸惑う。それでも進んでいかざるをえない。そうした点においては高野さんの辺境旅行譚との相似形が描かれるのでは、と。

後日、改めて入江さんを訪ねてこのことを聞いてみると、「多少、牽強付会ですが」と前置きしつつ、アナロジーを一段深く説明してくれた。

「突然犯罪の被害に遭うこと、突然の喪失、突然のグリーフ、というのは異境体験でもあります」
「まるで大嵐の中に放り出された船のよう。船が難破して島に着いてみたら、そこの人は人種も違い、言葉も通じず、着ている服も違う。その中で、自分の体験をうまく言語化できない。そんな経験なんです」

そして

「こうした体験がいかに言語化が難しいか、カオスの体験なのだということを伝えたい、と思っていました」

と語った。

それ故の高野さん登壇だったのだろう。合点がいった。

入江さんにとっての「言語化」は、事件発生直後から、まず警察の聴取に対して自らの知っていることを話すことだった。犯人逮捕に向けて必死に言語化しようとした。そこで何よりも重視されるのは事実関係だった。

次にマスコミの取材に答える、という言語化作業があった。ここでは事実関係に加え、「共感を求める言語化」を選んできたという。同情・共感を目指して「犯罪被害者」というペルソナを獲得する。そのためには大事件を受けて右往左往する警察や記者たちに感じた不可解さや滑稽さは一旦おいて、「ひたすら厳粛に」話ををすることになる。が、そうした"ペルソナに縛られた言語化作業"には息苦しさも感じていた。

そもそもカオスの中で自身の体験を言語化するのは至難の業であり、長い時間が経ってからようやく可能になるケースも多い。戦争体験や被災体験もそうだ。そこへ「事実関係に特化した語り」や「犯罪被害者遺族としてふさわしい語り」を求められ、自身もその枠にアジャストしていく中で、自らのグリーフと向き合いきれずに時間が過ぎていったとしても不思議ではない。

我々メディアは、犯罪被害者や遺族が抱えるそうした言語化の葛藤について、また、自分たちが犯罪被害者や遺族にとっては「異境で出会った異人」であることについて、どこまで意識的であるだろうか、そんなことを今更ながら考えた。

入江さんは自身の異境的・カオス的な経験を少しずつ言語化する水路を手探りで進んできた。自身のグリーフとも向き合うその過程では、同じように悲しみを抱えた人たちと繋がっていくことが大切である一方、自分と同じものだけを追い求めていくと「どんどん狭まっていってしまう」とも言う。そもそも全く同じ悲しみなどないのだ。そこから抜け出し「小さな翼を生やす」ためには、自分とは異質なものに触れ、そのバランスをとっていくことが大事、だと考えるようになった。