中華人民共和国が誕生し、10月1日で75年を迎えた。北京の天安門広場に、巨大な花飾りが登場し、中国は建国75周年のお祝いムードにあふれている。東アジア情勢に詳しい、飯田和郎・元RKB解説委員長が9月30日、RKBラジオ『田畑竜介 Grooooow Up』に出演し、この「四分の三世紀」を振り返るとともに、今後の日本との関係について展望した。

抗日映画の主題歌が国歌に

いきなりだが、中国の国歌はご存じだろうか。この夏のパリ・オリンピックで中国が獲った金メダルは米国と並んで第1位の40個。表彰式では、中国選手が金メダルを獲るたびに、中国国歌が会場に流れた。つまり、パリで一番多く流れたのが、中国国歌だった。歌詞の一部を、日本語で紹介しよう。

『立ち上がれ! 奴隷となることを望まぬ人びとよ! 我らが血と肉で、築こう 新たな長城を! 中華民族に最大の危機が迫る 一人ひとりが最後の雄叫びをあげる時だ』

中国国歌の正式名称は「義勇軍行進曲」。1935年に制作された中国映画「風雲児女」(日本語で「嵐の中の若者たち」)の主題歌だった。映画では日本の侵略に抗う中国の若者たちを描いている。「最大の危機が迫る」とは日本の侵略。つまり、この映画は当時の時代を背負った「抗日」映画だ。この映画の主題歌が、やがて中国の国歌になり、歌詞が歌い継がれている、というわけだ。

何が言いたいかというと、今の中国という国そのものが、日本の侵略に抗う歴史の中で、誕生した、ということだ。それを象徴するのが、この国歌といえる。そして75年間、その中国を、一党独裁を続ける中国共産党が導いてきた。この国歌誕生の経緯、そして歌詞に表れているように、中華人民共和国にとって、国内でまた対外的に問題が起きた時、「絶えず意識し続ける存在」が日本だ。

この「意識する」というのは「向き合う」ということだけではない。「利用する」「警戒する」「疑う」という意味もあるのではないだろうか。過去75年間もそうだったし、おそらく今後もそうあり続ける、と私は思う。中華人民共和国の歴史は、日本との関係の歴史と言っていいかもしれない。

鄧小平時代の蜜月から袂を分かった合弁事業

中国の75年間を振り返ると、3人の指導者それぞれの時代に分けられる。1人目は建国の父・毛沢東。2人目は1970年代末から改革開放政策を推進した鄧小平。そして3人目は、現在の習近平主席。習氏は自らを、毛沢東、鄧小平の先代2人と並ぶ存在に位置づけようとしている。

高度経済成長に導いた鄧小平時代の中国には、多くの日本人がイメージをもっているだろう。鄧小平は中国の遅れを認め、「日本国民に学びたい」「日本を手本にしたい」と言っていた。そういう中、日本も中国に手を差し伸べた。日中友好の象徴の一つが、上海にある宝山製鉄所だ。山崎豊子さんの小説「大地の子」でも知られる、中国で初めての近代製鉄所だ。鄧小平が望んだように、建設から技術指導まで、新日鉄(現・日本製鉄)の全面協力で、1985年に稼働した。

ところが今年7月、日本製鉄は宝山側との合弁事業から撤退すると発表した。ここ数年は、日鉄が特許侵害で宝山を提訴するなど、ライバル関係になっていた。かつての蜜月から袂を分かつのは、今の冷え込む日中関係を象徴しているかのように思える。習近平指導部は、日本の支援が中国経済発展の契機になったことを忘れたのだろうか。

さらに前、1989年の天安門事件の際。孤立した中国に、ほかの主要国に先がけて、国際社会への復帰を働きかけたのも日本だった。その日本に、主要国も追随した。中国は再び成長の道を走り始める。

中国が年間のGDP(=名目国内総生産)の実額で、初めて日本を抜いたのは2010年。GDPで日本を追い抜くのは「俺たちの方が大きい。デカい」と中国人の自尊心を高める材料になった。「日本を手本にしたい」という思いより、「日本は下だ」という転換点だったかもしれない。