敗戦後の日本人の心に刻まれた雄姿

その3年後、念願のオリンピックを迎えた。1952年(昭和27年)、ヘルシンキオリンピック。古橋は400m自由形決勝に挑んだ。敗戦で焼け野原となり、復興に向けて再び立ち上がろうとしているそのとき、水泳ニッポンの古橋廣之進の活躍は、日本人の誇りであり、明日を生きる希望であった。しかし結果は8位。すでに選手としてのピークは過ぎていた。
「進まないんですよ、いくらやったって。それで何とか元に戻らないかってやるんだけど駄目なんだ。僕はやれやれこれでやっと終わりか、と。もうやってることが苦痛でした。どうしようもない。愉快にできないんだもん」
古橋の最初で最後のオリンピックが終わった。もし戦争がなければ、違った水泳人生があったのかもしれない。しかし、逆境にも負けずに挑み続けたその雄姿は日本人の心に深く刻み込まれた。
引退後、古橋は日本水泳連盟会長、日本オリンピック委員会会長を歴任。日本のスポーツ界の発展に尽力した。水泳人、古橋廣之進の原点はー。
「僕らは授業が終わると本校から山崎まで歩いてきて、それで裸になってプールに入るわけです。で、終わると僕は家がすぐ近くだったから、暗くなってから家に帰ると、そういう生活だったんですよ」
古橋廣之進さんはこのインタビューの翌2009年8月、世界水泳選手権で滞在中のイタリア・ローマで亡くなりました。