再びプールへ、そして「フジヤマのトビウオ」に

1969年(昭和44年)東京・日大プールで泳ぐ古橋さん

水泳の名門日本大学に進学していたものの、すっかり泳ぐことを諦めていた。そして故郷に戻ったある日のこと。失意の中の古橋を救ったのは「大学でもう一度水泳を」という母の一言だった。それからまもなく、母は急性肺炎を患い、45歳の若さでこの世を去った。

「(母は)水泳やったってともかく一番になってほしいと思うし、立派な息子になってほしいという、そういう期待を常に持ってましたね。だから僕もそれにはぜひとも応えたいと」

古橋は日大水泳部の門をたたいた。左中指のハンディを克服するため、右腕に力を入れて泳ぐ方法を考え出した。しかし、それだと体が左に曲がってしまう。右腕を回すとき、左足を思いっきり強く蹴りバランスを保つなどの改良を重ねた。

「僕ら1500mの選手は1日多いときには3万mぐらいです。朝、昼、夜と。それだけやらなきゃ世界一にはなれないんですよ」

魚になるまで泳げー。古橋はそう自分に言い聞かせながら練習に没頭した。

1948年(昭和23年)8月、日本水泳選手権(神宮プール)。時を同じくしてロンドンでは戦後初めてとなるオリンピックの水泳競技が開かれていた。1500m自由形決勝。第5コースに古橋はいた。

「やる以上は世界で一番にならないとだから。世界記録を作らないと」

旧敵国として日本の参加が認められなかったロンドンオリンピックでの優勝記録をこの大会で破ることができれば日本は世界チャンピオンになれるのだ、と。記録は18分37秒0。ロンドンオリンピックの優勝者にまさること41秒5。世界記録の誕生に日本中が熱狂した。

翌1949年(昭和24年)、日本は国際水泳連盟復帰が認められ、古橋らは全米男子屋外水上選手権大会(ロサンゼルス・オリンピックプール)に招待された。

「向こうは相手にしていないんだ。日本のプールなんて短いから記録がいいじゃねえかって。日本の時計なんて回るの遅いんだよってなんて言ってるわけ。で、この野郎、何言ってんだ、と。ともかくがんばってやっつけるよりしょうがない」

古橋は1着でゴール。

「2番に180mですよ、差は。それでみんなびっくりしちゃって。こりゃすげえやって。結局記録は発表にならないんですよ。回数を間違えたとかね、時計がおかしいとか思ってんだから向こうは。これはそう思いますよ、それだけ違うんだから」

この大会で古橋は、400m、800m、1500m自由形で、いずれも世界記録をマーク。
「フジヤマのトビウオ」として世界にその名を轟かせた。