派手な交友関係とカネ
中江はインサイダー情報(当時はまだ規制が緩かったとされています)を得るために各界の要人たち(特に政治家)と派手な交友関係を結び、一部芸能人などとの浮名を流しました。その華やかな姿が彼のカリスマ性を上げた、という一面も否定できません。
一方「髭面の若い男が何やら勝手な理論を振り回している」と苦々しく思った古株の証券マンも多くいました。そうしたアンチに囲まれて、だんだん『N銘柄』の効力は失われていきます。『N銘柄』は、いつしか「上がる」どころか「危険だ」とされるようになっていました。

そんな中、中江は大博打に出ます。1984年に「必ず上がる」と、とある化学メーカー株に巨額のカネを投じ、大勝負に出たのです。ところが、そこで中江は負けました。
以前より顧客から集めていた数百億円も返せず、そのまま中江は逮捕されました。

「騙すつもりはなかった」
裁判で中江は「騙すつもりはなかった」と主張しました。しかし、結果として金を失った顧客は収まりません。結局判決は詐欺罪で懲役6年。
じつはこの事件をキッカケにして「投資顧問」についてのさまざまな法整備はなされていったのです。

彼のことを「愛すべき悪党だった」という人がいます。
確かに彼は様々な経済詐欺師たちとは毛色が違うように感じます。最初から客を騙す気マンマンの、マルチやポンジスキームの詐欺師たちと同列ではなく、中江はいわば「派手なバクチ打ち」だったのでしょう。そして自分のバクチに酔っていた。
しかし最後の大博打で大負けし、結果として多数の客を裏切りました。「必ず儲かる」といわれた顧客にとってそれは詐欺と何ら変わりません。それが投資ジャーナル事件の本質だったように思えます。
焼け跡から「投資法」
享年66。木造アパートの焼け跡からは、中江手書きの株投資ノートと、チャート図が山のように見つかったといいます。
中江は令和のアパートで再起を目指していたのでしょう。
ネットで素人でも手軽に投資ができるようになった今、彼は何を考えて、どのような手書きチャートを書いていたのでしょうか。