卒業生の母校愛や郷土愛から、各校の魅力を深掘りする企画『DIG School』。今回はモーニング娘。やアンジュルム、Juice=Juiceなどのアイドルグループで構成される「ハロー!プロジェクト」の“育ての親”とも言われる音楽プロデューサーの橋本慎さん(57)を取材した。初代・モー娘。が始動してから30年近く音楽シーンを見つめてきた橋本さん。母校の札幌南高校での体験と“育成術”がつながっていることが取材から見えてきた。
青春小説を切り取ったような母校・札幌南高校
「ハロー!プロジェクト」(以下、ハロプロ)の所属する「アップフロント」の執行役員を務める橋本慎さんは、北海道札幌市の出身で、公立高校「北海道札幌南高等学校」を1985年に卒業した。
橋本さんは「不真面目な高校生でしたよ。校則がなく、髪型もパーマをかけようが自由。遅刻もしょっちゅうで、そのうち1時間目の授業には行かなくなっていました」と振り返る。
札幌南高校は、北海道有数の男女共学の進学校だ。1895年に開校し、多くの卒業生が政財官や学術など多方面で活躍している。そして「自主自律」の精神のもと、制服はなく、自由な校風で知られている。橋本さんは、そんな校風を存分に利用した。
「朝、行ってきますと言って家を出て、1、2時間目の間は、だいたい狸小路(札幌中心部の商店街)の喫茶店に仲間とたまっていました。そして放課後になると、ススキノに行って…不適切にもほどがあって、今は言えない(笑)」

当時は、背伸びしたい、悪ぶりたい“盛り”。朝、家を出てから終電間際で帰宅するまで、1日15時間は外でなにかしら動いていたという。
そうしたあり余るエネルギーを、音楽にも注ぎ、中学の同級生と組んだ「サファイア」と、高校で組んだ「ヴァンガード」という2つのバンドを掛け持ちし、ともにキーボードを担当した。
「(音楽グループ)YMO(イエロー・マジック・オーケストラ)の登場で、ギタリストだけでなく、『鍵盤もメインを張れる時代が来た』と張り切って、(札幌の百貨店)丸井今井のフルーツパーラーでバイトして貯めた金で、20数万円するヤマハの(シンセサイザー)DX7を買いました」

5歳から中2まで、エレクトーンを習っていた橋本さん。バンドの「カシオペア」など当時流行していた音楽のジャンル・フュージョンを中心に演奏していたという。
また、学校を抜け出しては、中森明菜さんのサイン会に行ったり、雪まつり会場に来た石川秀美さんや森尾由美さんを見に行ったりもしていたという。

「今思えば、札幌南高校は、『大学のような高校』で、その雰囲気が憧れだったような気がします。勉強しなくても、誰にも何も言われない。やらないやつはやらなくていい。だから楽しかったですよ。両親も寛容でした」
とはいえ、3年生の夏になると、“本当の”大学に行くための現実を突きつけられる。そのころの成績は、学年の下位だったという橋本さんは、札幌の予備校に通い、受験勉強に本腰を入れ始めた。
「数学は得意だったが、物理は全くダメ。古文・漢文も全くダメでした。そのころ、建築設計の仕事をしていた父親に勧められた『アントニオ・ガウディ』のドキュメント映画を観て、建築って面白いなと思ったのと、2次試験に物理がないことを理由に、横浜国立大学の建築学科を受験しました」
そして、1985年4月、横浜国立大学工学部建築学科に合格。まさに青春小説を切り抜いたような3年間だった。
「ハロプロ」のメンバーをその気にさせるメソッド 源流も「自主自律」
大学で建築を学んだ橋本さんだが、就職したのは、大手レコード会社だった。
バブルで活況だった不動産会社から内定をもらっていたものの、心の隅には高校時代に親しんだ音楽業界への憧れがあったという。そして(マスコミ志望者のバイブルといわれる)『マスコミ就職読本』で情報を収集し、レコード会社から内定をもらうと、不動産会社の内定を辞退。レコード会社で、宣伝プロモーターとして音楽人のスタートを切った。
そこで6年半、数々のアーティストやメディアを担当。人気アイドルがワケあって入院したときには、病院の前に押し寄せるマスコミを追い払ったこともあったという。
そして95年、現在のアップフロントに転職し、つんく♂さんとともに、音楽ディレクターとして歴代のハロプロメンバーを育て上げることになる。

「スタートは『ASAYAN』(テレビ東京のバラエティ番組)だったので、どうせ企画モノかな?という、軽い気持ちで始めたら、まさかの大ヒットで、これはちゃんとやらないといけないなと。ただそれまでアップフロントでは、グループアイドルを誰もやったことなかったから、試行錯誤しながらやっていました」
現在のハロプロは、モーニング娘。24、アンジュルム、Juice=Juice、つばきファクトリー、BEYOOOOONDS(ビヨーンズ)、OCHA NORMA(オチャノーマ)の6組のグループで構成。“体力オバケ”と称される無尽蔵のスタミナやパフォーマンス力、そして正真正銘の生歌がファンの心をわしづかみしている。
ライブ会場の来場者は男女半々で、“ドはまり”する女性が大勢いるのがハロプロの特徴だ。男性目線でのプロモートが主流だった女性アイドルに、女性が共感している今のムーブメントに対し、橋本さんは「ありがたいです。女性に刺さるようには、多少意識しましたが」と明かす。
「メンバーの子たちはみんな、楽しいのはライブだと。だから彼女たちがライブで輝くためにどうするかっていうのは、常に考えています」
札幌南高校の校風と同様、型にはめることはあまりしないという。その代わり、デビューまでの研修期間には、歌やダンスのスキル、マナーなどの基本動作はきっちり教え込む。

「つんく♂イズムでもあるんだけど、元から歌がそれほどうまくない子でも、いかに『16ビート』を感じるか、感じさせるか、リズミックに踊るか、歌うか。それが源流にあって、これまでの26年で熟成されてきたのが、今のハロプロじゃないかな」
「そして僕の仕事は、作詞家や作曲家など、才能のある人を見つけてジョインさせること。それと、それぞれのグループは自然とカラーができるので、そのカラーをちゃんといかすこと。こっちのグループはおしとやかな感じとか、こっちは元気な感じとか、たまにその逆のことを。いつも同じことばかりではいけないのでね」
札幌南高校を卒業したことは誇り
橋本さんは、札幌南高校で濃密な3年間を過ごした。それにも関わらず、「先生に見つからないように行動していた」からか、恩師とのエピソードはほとんど思い出せないという。
恩師とのエビソードは?との質問に、しばらく考えた後に出てきたのは、柔道の授業で、受け身を取り損ねて脱臼した肘を、体育の先生が治したという話だった。
その先生とは、数年前に東京で開催された六華同窓会(札幌南高の同窓会)で再会し、「先生に骨接ぎをしてもらいました」と声をかけたものの、先生には「そうだっけ」と、軽く流されたという。

「札幌南では、自分で考えないと、自分の将来を切り開けないし、誰もレールを敷いてくれないということを学んだかなあ。あと先生は何も言ってくれないので、自分で決めるという覚悟みたいなものも。それはその後の人生でも、仕事のやり方にも当てはまりましたね。アイドルグループを初めてマネジメントした時も、誰もそのやり方を知らないし、自分たちで生み出すしかなかったですからね」
そして在校生や同窓生に対しては、「何だかんだ言っても、北海道で一番古い伝統のある学校、その誇りは持っていいと思う。札幌南を出たというのは、大きな証」とエールを送る。
現在57歳の橋本さん。地元に恩返しするつもりで、同窓生たちと、それぞれのキャリアを生かした“楽しい何か”を札幌でやりたいと、たくらんでいる。
