ロンドン・ウィンブルドンのパークサイド病院の手術室。そこに横たわる50歳の男性は、前立腺がんを除けば健康そのもので、体力も十分にある。担当が他の医師であれば前立腺が全摘除されることになったかもしれないが、外科医のハシム・アフメド氏が取ったのは別の治療方針だ。

英国屈指の名門理工系大学インペリアル・カレッジ・ロンドンで泌尿器科主任を務めるアフメド氏は、患者のクルミ大の前立腺に超音波プローブ(探触子)を当て、モニターを見ながら腫瘍の位置を確認する。腫瘍は直径10ミリと小さいが、通常なら放射線や外科手術、ホルモン療法といった前立腺全体に及ぶ治療が必要となる。

しかし、プローブから超音波をピンポイントで照射して腫瘍を壊死(えし)させるアフメド氏の手法なら、周囲の組織を温存できる。

前立腺がん治療用の画像診断装置

フォーカルセラピー(局所療法)と呼ばれるこの手法は前立腺がん治療の実験的アプローチで、まだ一部の医療機関でしか行われていない。従来の治療で生じやすい尿失禁や勃起不全、陰茎短縮といった副作用を回避する狙いがある。

今回の患者はこの治療に理想的な候補だとアフメド氏は語る。「彼はまさにわれわれが求める患者だ。若く、機能をできるだけ維持したいと望んでおり、リスクは中程度で余命も長い」と説明した。

前立腺がんは皮膚がん以外で米国人男性に最も多いがんであり、世界的にも罹患(りかん)率が最も高いがんの一つだ。高齢化に伴い患者は増加傾向にあり、リスク圏内にいる男性が増えている。

黒人男性の前立腺がんによる死亡率は白人男性の約2倍に上るが、臨床試験に参加する黒人男性はそれほど多くない。つまり、実験的治療へのアクセスが限られ、医師は治療方針を決めるための確固たる情報を十分に持ち合わせていない。

前立腺がん診断・治療市場は2024年に世界全体で約120億-150億ドル(約1兆8300億-2兆2900億円)規模に達し、アナリストの間では30年代半ばまでに倍増すると予想されている。医学誌ランセットが24年に公表した報告書によると、世界の患者数は40年までに2倍余りに増え、死者数は年間70万人に迫る見込みだ。

 

数十年にわたり前立腺がん治療は、「過剰に検査して過剰に切除する」か、「不十分な検査で進行がんを見逃す」かの両極端を行ったり来たりしてきた。

前者の手法は、前立腺特異抗原(PSA)検査の導入を受けて、1980年代に普及。診断数が急増し、それに伴い検査数と過剰な治療が増えた。米国では、放置しても健康被害を及ぼさない前立腺がんと診断された患者数は1986-2016年に推定190万人に上り、その多くが過剰治療を受けた。

前立腺を摘除した男性の最大40%が尿失禁、最大70%が勃起不全、そしてほぼ90%が5年以内に射精不能になる。「われわれは20-30年にわたり害を及ぼしてきた」とアフメド氏は語る。

その後、予防治療に関する助言を提供する政府支援の専門家パネル、米予防医学作業部会(USPSTF)は12年、致命的でない前立腺がん患者への過剰治療を抑えるため、全ての男性を対象にしたPSAに基づく検査は推奨しないと表明。検査受診率は下がったものの、早期発見率も低下し、がんの転移が後に判明する男性が増えた。

USPSTFは18年に姿勢を緩和し、55-69歳の男性については医師と相談の上で検査を受けるかどうかを決めるよう勧告。重要なのは検査数を減らすことではなく、検査の精度を高めることだとの認識を鮮明にした。

バイデン前米大統領(82)が最近、骨転移を伴う進行性の前立腺がんと診断された例からも、検査の回避・先送りが過剰治療と同じくらいのリスクとなり得ることが読み取れる。

アフメド氏(49)は、「よりスマートな検査」で過剰治療の弊害なしに命を救えることを証明しようと決意している。

同氏は過去20年で最大規模の前立腺がんのスクリーニング検査「トランスフォーム」を主導している。英国内でさまざまなバックグラウンドを持つ男性25万人超が参加する計画で、10年以上にわたるフォローアップ(追跡調査)を実施することで、より精度の高い前立腺がん検査方法を検証する取り組みだ。また、移動式MRIを使い10分で完了する検査も導入している。

Doctor Hashim Ahmed
ハシム・アフメド医師

がんが発見されればフォーカルセラピーを活用する余地が生まれるが、実践する医師や医療機関が増えることが大前提となる。英国でMRI診断指針の確立に尽力したアフメド氏が「男性版ルンペクトミー(乳房部分切除術)」と呼ぶこの治療法は、一世代前の乳がん治療を想起させる。当時、根治的乳房切除術(乳房全体と胸筋やリンパ節を切除する手術)に異議を唱えた外科医は、強い反発を受けた。

アフメド氏はフォーカルセラピーの先駆者であるユニバーシティー・カレッジ・ロンドンのマーク・エンバートン教授の下で研さんを積み、その後、この分野の第一人者となった。今も前立腺肥大症やぼうこうがんの手術は行うが、前立腺の全摘除はしない。「自分は最も手術に消極的な外科医だ」と話す。

この治療法により尿失禁や勃起不全のリスクをわずか数%に抑えられることが、複数の研究結果で示されている。英国の研究では、合併症発生率の低下と回復期間の短縮が医療費削減につながり、患者の生涯コスト面でより安価な選択肢となり得ることも示唆されている。

それでも英国でフォーカルセラピーを受けるのは適格患者の1割未満にとどまり、国内の診療指針上も「さらなる検証が必要な治療法」と位置付けられている。

米国でも大半の患者について、この治療法は推奨されていない。米国の泌尿器科医を対象とした最近の調査からはその利用が増えつつあることがうかがえるが、主流とは程遠い状況だ。

メルボルンのピーター・マッカラムがんセンターの泌尿器科医、デクラン・マーフィー氏は「前立腺の一部しか治療されないため、残った部分にがんが再発する可能性がある」と指摘する。

米クリーブランド・クリニックのように、慎重な安全策を講じた上でこの治療法を一部患者に施す病院もある。腫瘍ボードでそれぞれの症例を検討した上で、腫瘍がMRIで明確に確認でき、サイズもまだ小さくて正確に的を絞れるケースに限定している。

泌尿器科医のジェーン・グエン氏は「成功の可能性が高いと思われる患者を選んでいる。このため率直に言って、われわれの成功率は極めて高い」と述べた。

再びパークサイド病院に戻ろう。アフメド氏が超音波を3秒ずつ照射すると、モニター上で白い閃光(せんこう)がはじけ、組織がセ氏90度近くに加熱されて死滅していく。前立腺の20%のみを焼灼(しょうしゃく)する予定で、患者は数週間で回復できる。

副作用は外科手術や放射線療法よりもかなり少なく、持続的な尿失禁は1%未満、勃起不全は約5%、完全な射精不能は半数にとどまる。外科手術後の典型的な副作用と比べれば、格段に改善されている。

(原文は「ブルームバーグ・ビジネスウィーク」誌に掲載)

原題:Prostate Cancer Fight Adds Experimental Treatment to Arsenal(抜粋)

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