(ブルームバーグ):スズキは27日、社長、会長を長く務めた鈴木修氏が25日に悪性リンパ腫で死去したと発表した。94歳だった。国内で軽自動車事業を強化する一方、インドの成長力に賭けていち早く進出したことで圧倒的なシェアを築いた。自動車業界が激変する中で、スズキの生き残りをかけてトヨタ自動車と組む決断をして資本提携の道を開いた。

スズキによると、現在は相談役を務めていた鈴木氏が亡くなったのは25日午後3時53分だった。葬儀は近親者で執り行った。後日、「お別れの会」を開催する予定としている。
鈴木氏は岐阜県下呂市出身で1930年1月30日生まれ。中央大学卒業後に銀行勤務を経て、2代目社長の鈴木俊三氏の娘婿となり、58年に当時の鈴木自動車工業に入社。63年に取締役となり昇進を重ねて78年に社長に就任した。90年に現在のスズキに社名変更。売上高や時価総額を順調に伸ばし、現在では日産自動車などを抜いて時価総額で国内3位の自動車メーカーに育て上げた。
鈴木氏が社長に就任して取り組んだのは軽自動車事業の強化だ。スズキの沿革によると、70年代半ばには排出ガス規制への対応に遅れて苦境に陥っていたが、低価格やスペース確保を徹底した初代「アルト」を79年に投入し、大ヒットとなった。
80年代に入ると海外展開を推進。82年にインド政府と四輪車の合弁生産で基本合意、83年にはインドメーカーのマルチが現地でスズキの車の生産を開始した。アルトをベースにした「マルチ800」がヒットし、現在にいたるも現地では圧倒的首位の座を維持している。81年には米ゼネラル・モーターズ(GM)と業務提携した。
空高く舞う
GMとの提携に際し、飲み込まれるのではないかとの記者団の質問に対し、鈴木氏はGMを大きな鯨、自社をメダカより小さな蚊に例え、メダカは鯨に飲み込まれてしまうかもしれないが、小さな蚊ならいざというときには空高く舞い上がり飛んでいくことができる、と語った。その後、リーマンショックなどを経て、GMが連邦破産法11条に基づく会社更生手続きに移行する状況の中、同社との資本関係を解消した。
新たな提携先を模索していたスズキは2009年に独フォルクスワーゲン (VW)と資本・業務提携を結んだ。しかし、中核技術へアクセスできないなど信頼関係が構築できなくなったとして、スズキは11年に提携を解消し、VWに保有するスズキ株の返還を求めて国際仲裁裁判所に提訴。同裁判所は15年に包括契約の解除と株返還を認める判断を下した。
その後、自動車業界では電動化や自動運転など新技術の台頭で「100年に1度」とも表現されるほどの大変革が進み鈴木氏はスズキの生き残りのためにひそかに新たなパートナー探しに着手。最終的にトヨタ自動車と提携関係を結び、19年には相互出資も発表した。
鈴木氏が社長に就任した当時は50円前後で推移した株価は長期的に成長を続け、直近との比較では約35倍となった計算。同期間でのパフォーマンスの比較ではトヨタなどを上回っている。

鈴木氏はまた、率直な発言をする経営者としても知られた。近くにスズキの工場がある浜岡原子力発電所(静岡県御前崎市)を巡り、東日本大震災後に当時の菅直人首相の要請を受けて中部電力が運転停止を決めた際には「地元企業として、1人の日本人として高く評価する」と発言した。
後継者問題
米自動車業界が税制面などで優遇されていると日本の軽自動車のカテゴリー廃止を求めた際は、鈴木氏は「内政干渉」だと反論、「多くの技術を必要とする軽自動車市場ですが自由に参入してください」と切り返した。政府が消費増税に際して軽自動車税の引き上げを検討していたときには「弱いものいじめ」とけん制したこともあった。
鈴木氏にとっては後継者問題が長年にわたって大きな課題だった。09年発行の自著「俺は、中小企業のおやじ」では「社長・会長に就任して通算30年だが、常に頭を悩ませてきたのが後継者選び」とし、「後継者選びは、企業経営者にとって最大にして最後の課題」であり、「いかに自分の思うようにならないか」を痛感したとしていた。
スズキでは後継候補が健康上の理由などで脱落したこともあり、鈴木氏が長期にわたって会長と社長を兼務していたが15年6月に社長職を長男の鈴木俊宏氏に譲った。その後、鈴木氏は21年に会長を退任して相談役となり、経営の一線を退いていた。
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