もはや”校内の一部”
森本商店は、創立100年を迎えた藤枝東高の正門前にある。
おばちゃんの父親が店を始め、開校時から、生徒たちの学用品の販売を一手に引き受けていたという。そのうち、お腹を空かせた育ち盛りの生徒たちのため、パンを販売するようになり、生徒たちが学校帰りに立ち寄っていった。

森本商店が「森パン」と呼ばれるようになったのは、おばちゃんによると、サッカー部員だった橋本忠広さん(1954年卒・元静岡県体育協会理事・元静岡県サッカー協会副会長)が「言い出しっぺ」だったという。
「あの頃は、部活の後輩が先輩の使いっ走りをしていた時代。『おい、森本さんに行ってパンを買って来い、森本のパン、えーい、森パンだあ!』って、そこから森パンと呼ばれるようになっただよ(笑)」
東高生にとっては、もはや”校内の一部”のような存在だった森パン。立ち寄るのは、在校生だけではない。卒業生も頻繁にふらっと立ち寄り、おばちゃんとおしゃべりし、「情報交換」していく。
そして、自然と「サッカー部のことは森パンに聞けばなんでもわかる」存在となっていった。おばちゃんは常に店にいて、グラウンドに練習を見にいったり、試合の応援に行ったりしないのに、である。
スマートフォンがなかった昭和の時代、サッカー部の試合結果が知りたい人は、森パンに尋ねた。試合を見に行ったOBや保護者が、試合結果はもちろん、途中経過も公衆電話から森パンに「速報」を入れていたからだ。
また、卒業生におばちゃんがまず尋ねるのは、
「あんたの代のサッカー部は誰だね?」
おばちゃんの“脳内コンピューター”は、サッカー部と紐付けられていて、卒業年ではなく、同じ学年のサッカー部員の名前が検索キーワードになり、瞬時にヒット。「おばちゃんオリジナル検索システム」だ。
立ち寄った卒業生がおしゃべりしていった話が、サッカー部員の名前とともに、頭の中に蓄積されされていく。それは「ゴミ箱」に入れられることはない。誰もが驚くおばちゃんの記憶力は90を過ぎても変わらず健在だ。
「初めて全国優勝した時の山口(芳忠)さん、桑原のお兄ちゃん(勝義さん)、菊さん(菊川凱夫さん)、三冠王の時は松永章さんに井沢千秋さんに…」
おばちゃんの口からは、昭和の藤枝東黄金期の往年の名選手の名前が、次から次へと出てくる。そして、話は昭和の終わりから平成へ。中山雅史さん、山田暢久さん、佐賀一平さんに河村優さん、長谷部誠さん…彼らの高校時代や卒業後がつい最近のことのように語られる。
おばちゃんに「今までで1番の思い出は何か?」と聞いてみた。
「そりゃ、三冠王(1966年度)の時はすごかったよ。白子の商店街から正門まで、ズラ〜っと人でいっぱい。みんな旗を振って。本当にすごかった。あの光景、もう一回見たいやぁ」
「私の父が亡くなった時はね、出棺の時に、サッカー部が全員整列して見送ってくれてね。本当にありがたかった。幸せもんだよ、森パンは」
「河井(陽介 現:カターレ富山)たちの代が準優勝した時にはね、保護者がサッカー部のメンバーのサインが入ったサッカーボール手まりをプレゼントしてくれてね、『森本さん、ありがとうございました』って言ってもらえてね。うれしかったよぉ」

絞りきれない「1番」の思い出が時代絵巻のように語られる。
歴代サッカー部員にとって、森パンはハードな練習の後、毎日立ち寄っては腹を満たし、仲間と笑い語り合う場だった。そして、卒業後もふらっと立ち寄るという。