育ててもらった岡山盲学校「悲しいこともいっぱいあった」
岡山盲学校には、小学校3年生から通い始めました。以来、竹内さんは盲学校の児童・生徒として、さらには東京教育大学(のちの筑波大学)を卒業後、教員・教頭を経て、今は講師としてこの学校に通っています。

(竹内昌彦さん)
「生徒として11年間、教員になってから40数年お世話になっている場所ですから」
「子供のときから大人になるまで、いろんな知識をつけ、力をつけて、大人に大人の体にしてくれたんですから」


「それはもうこの原尾島(はらおじま・岡山市中区の地名)は、私にとっては親の次に大事な場所ですよね」
「楽しいことがいっぱいあったんです。でも悲しいこともいっぱいあった」

兄は好きな道へ「自分は諦めるしかなかった」
授業で学ぶ内容は、一般の学校とほとんど同じ。勉強に打ち込んだ竹内さんは、優秀な成績を収めていました。しかし、突き当たったのは「目が見えない」という現実でした。

(竹内昌彦さん)
「私は目が見えたら、本当は絵が好きでね。設計図を書くような仕事をしたかった。でも、目が見えないからその道を諦めるしかなかった」
「一つ年上に兄がいます。兄は、あんまり勉強せなんだのに、これがようできた。岡山で1、2という難しい高校に楽々入学していった。本人はケロッとしていましたが、親は嬉しそうでしたよ。母親があんなに嬉しそうな声出すの初めて聞いた」

「羨ましかったんですよ。目が見えたら、勉強を頑張れば頑張るほど、自分の好きな道、どこへでも選べる」