◆一番心配された人も落ち着いて旅立つ

石垣島事件の法廷 前列右端が榎本宗応中尉

最後に別れの挨拶に来たのは、榎本宗応中尉。事件当時、現場を仕切っていて、藤中松雄や成迫忠邦らに米兵の刺突を命じた。スガモプリズンに収容された戦犯の中には、精神的に病んでしまう者も多く、自殺者が出たことから、独房に一人ずつではなく二人入れていたくらいだ。宮崎出身の榎本中尉は「職業軍人として真面目にやりすぎた、子供は軍人にはなすな」と遺書を書いている。

<冬至堅太郎の日記 1950年4月5日水曜日>
〇七人目は榎本さん、何度も気が変になりかけた人だけに一番心配されたがやはり落ち着いた態度だ。
E「いろいろとお世話になりました」
T「こちらこそお世話様でした。元気で行って下さい」
E「はい、ありがとうございます」

◆7人は去った・・・

日記を残した冬至堅太郎

<冬至堅太郎の日記 1950年4月5日水曜日>
七人は去った。鳥巣さんも何時の間にか床から出て服を着ていた。二人とも床の上に座って暫く合掌する。
「鳥巣さん、みんな、すっきりとした態度でゆきますね、実際立派だ」
「・・・・・」
「立派な青年を失うのは残念ですね」
「・・・・・米軍はやりますなあ」
七人の平然とした態度に比べて連れに来た米軍の将校や下士官たちの方が蒼ざめている様でさえあった。死につくものの立派な態度は米人たちに必ず貴いものを与えるに違いない。十日ばかり前までは三十六名いたのに、二十一名に減ってしまったー


7人を見送って、冬至堅太郎は「いよいよ私たちの番も近い」と身震いした。それまでの天命を最善に生きねばならないと自分に言い聞かせている。

そして、藤中松雄は死刑執行までに与えられた28時間で、22枚の遺書を書いたのだったー。
(エピソード107に続く)

*本エピソードは第106話です。
ほかのエピソードは次のリンクからご覧頂けます。

◆連載:【あるBC級戦犯の遺書】28歳の青年・藤中松雄はなぜ戦争犯罪人となったのか

1950年4月7日に執行されたスガモプリズン最後の死刑。福岡県出身の藤中松雄はBC級戦犯として28歳で命を奪われた。なぜ松雄は戦犯となったのか。松雄が関わった米兵の捕虜殺害事件、「石垣島事件」や横浜裁判の経過、スガモプリズンの日々を、日本とアメリカに残る公文書や松雄自身が記した遺書、手紙などの資料から読み解いていく。

#1 セピア色の便せんに遺された息子への最期の言葉「子にも孫にも叫んで頂く」
#2 文書は燃やされ多くが口を閉ざしたBC級「通例の戦争犯罪」
#3「すぐに帰ってくるから大丈夫」スガモプリズンで”最後の死刑”
#4 最初か、最後か“違和感”の正体は?藤中松雄が問われた「石垣島事件」
#5 戦争中“任地”で起きたことを話さなかった 「兵隊に行きたくないとは言われん」藤中松雄の100歳の“同期”
#6「死刑執行」は“赤”で記されていた、藤中松雄の軍歴が語るもの
#7 法廷の被告人席に父がいた…死後70年経って初めて見た“父の姿”
#8 想像を超える“捕虜虐待”への怒り、法廷を埋め尽くす被告たち
#9 “最後の学徒兵”松雄と共にスガモプリズン最後の死刑囚となった田口泰正
#10 黒塗りの“被告名簿”国立公文書館のファイルから出てきたもの
#11「石垣島事件」とは?殺害されたのはいずれも20代の米兵だった
#12 墜落の瞬間が撮影されていた!米軍資料が語る石垣島事件
#13 “石垣島事件”3人はどこで処刑された?
#14 石垣島事件の現場はここだった
#15 法廷写真の青年は誰?石垣島で調査
#16 法廷写真の青年は誰?男性のインタビューが残されていた
#17 19歳で死刑宣告を受けた元戦犯は
#18 法廷にいた青年を特定!拡大写真の“傷”が決め手に「どこかの誰か」ではなく人物が浮かび上がる
#19 石垣島はもはや過去の歴史の舞台ではない
#20 取り調べでは「虚偽の供述」強要も
#21 松雄の陳述書は真実を語ったもの?福岡での取り調べ
#22 陳述書の真実は?「命令で刺した」それとも「自発的に刺した」
#23 松雄の調書に書かれたメモ「私は命令によって行動したのです」
#24 これが真実?弁護人に宛てた松雄の文書
#25 松雄が法廷で証言したこと
#26「調査官からだまされた」法廷での証言に共通していたこと
#27「裁判の型式を借りた報復」弁護人が判決に対して意見したこと
#28「例を見ぬ苛酷な判決」弁護人が判決に対して意見したこと
#29 密告したのは誰だ~石垣島事件はなぜ発覚?
#30 大佐から口止め「真実の事を云ってくれるな、頼む」事件の真相を知る少尉
#31「元気がないから兵隊に突かせる」処刑方法を決めたのは
#32「若き副長をかばった?」あいまいな証言の理由は
#33「かなしき道をわれもゆくべし」若き副長の最期
#34「私が命令した」裁判直前、司令の方向転換
#35「不本意ながら涙をのんで発令した」遅すぎた司令の方向転換
#36 大佐が弁護人へ礼状「思い残す処なきまでし尽くした」ほかの被告たちは法廷で発言できたのか
#37「永遠の別れと知らず帰りき」大佐が遺書に綴った家族への思い
#38 ぎりぎりで死を免れた兵曹長 石垣島事件を語るキーパーソン
#39「言っていないことが書かれている」調書にあった酷い暴行と仇討ち
#40「お前が殴ったと他の者が言っている」米兵の十字架を建てた兵曹長は偽りを書いた
#41「父は何も語らなかった」直前で死を免れた兵曹長の戦後
#42「処刑は戦闘行為の一つ」命のやり取りをしている戦場で兵曹長は思った
#43「だから戦争はしちゃいかんです」死刑を宣告された兵曹長の真実を知った息子たち
#44「命令に従った」は通用しない問われる個人としての戦犯
#45 間違った命令に従った場合は・・・戦犯裁判で抗弁にならなかった日本の認識
#46「命令の実行者が絞首刑」石垣島事件の過酷な判決 ほかのBC級戦犯裁判はどうだった
#47 なぜ下士官までが極刑に 41人が死刑 石垣島事件の特殊要因は
#48 下士官ですら死刑執行 米軍の怒りはどこに 石垣島事件厳罰の背景は
#49 米国人弁護士が交代 石垣島事件の裁判をめぐる不運な事情
#50 捕虜虐待の根底にあった「捕虜となることは大きな恥辱」嘆願書で強調した日本の”常識”
#51 絶対服従「上官の命令は天皇の命令」 命令を受けるものは単なる道具だった
#52 嘆願書「日本再建に極めて有用な青年」名前が書かれていたのは
#53 30歳の特攻隊長 嘆願書に書かれた「とりかえしのつかぬ不運」
#54 ”剣道の達人”特攻隊長は海戦で大けが 特攻出撃なく郷里に帰ったものの
#55 特攻隊長ですら恐怖を覚えた米軍の調査 真実を述べるために証言台へ
#56 証言台の特攻隊長「復讐心ではない 命令で斬ったのだ」
#57 証言台の特攻隊長 捕虜の扱い「国際法は知らず」処刑は前にも
#58 獄中の特攻隊長「同郷人だ、死ぬまで一緒に居ようや」「よかろう」同室の友は九大生体解剖事件の大佐
#59 特攻隊長は“悟り”をひらいた 死刑囚の棟での信仰「人間は宇宙そのものだ」
#60 特攻隊長との別れ「それ来たぞ」「いよいよ来たか」淡々と死刑執行へ
#61 死刑執行が決まった日「元気でゆけよ」「さよなら」特攻隊長はとぼけた顔をして
#62 特攻隊長の遺書「原爆で死せる人間を生かしてくれたら喜んで署名しよう」死刑執行前夜
#63 夜には死刑執行「この俺を殺さんとするのは空気を棒でたたく様なもの」不屈の特攻隊長
#64 死刑目前 特攻隊長の歌「わが最後の夜とも知らず 帰りつつあらむ老母思ふ」
#65 あと26時間の命と知った特攻隊長「人間その境遇になれば誰でもこんな心境に」
#66 今夜、絞首台に上る特攻隊長「人生は量にあらず、質にあり」最後の日に綴ったこと
#67 死刑執行まであと10時間「この先も最後まで私の全力を尽くします」特攻隊長の信念
#68 トルストイ「戦争と平和」に胸打たれた特攻隊長 遺書の最後は「元気に朗らかに仲よく」
#69「暴力の源は戦争を生む近代文化と個々の心にひそむ」戦犯たちの最期を見届けた教誨師が訴えた
#70 戦犯たちの「必死の思い」遺書をまとめたのは26人の仲間を見送った元死刑囚
#71「眉目秀麗な村で唯一人の大学生」26歳で処刑された下士官の姿を探して
#72 死刑執行された下士官の姿を探して「これは忠邦さんに間違いない」泣き崩れた94歳
#73 スガモプリズンで叶わなかった面会「ストップ!」とMPに阻まれ カービン銃をつきつけられた男性
#74 死刑になった26歳の下士官 その時「米兵は生きていたのか、死んでいたのか」量刑を左右したのは
#74 死刑になった26歳の下士官 その時「米兵は生きていたのか、死んでいたのか」量刑を左右したのは
#75「同じ事を同じ状況で行ったのに」死刑執行された26歳上等兵曹と減刑された兵曹長 今生の別れ・・・澄み切った瞳を忘れられず
#76「しかし変ですね、何ともありませんよ」笑って別れを告げた26歳の下士官 平常心で絞首台に向かった心の底には
#77「死の洗礼を受けずしては、真の宗教家たり得ない」冷や汗をかいた教誨師が残した26歳下士官の仏教体験
#78「人間として最大の恐怖は何かーそれは死である」26歳で死刑執行された下士官の信仰と安心
#79 母に宛てた遺書「忠邦は死ぬると云うことを知らないものになった」26歳で処刑された学徒兵は20歳で海軍へ
#80 苦しいことがあってこそ幸福もある・・・BC級戦犯で死刑になった学徒兵が母に宛てた遺書「苦しい時は思いきり苦しむこと」
#81 26歳で処刑されたBC級戦犯の遺書「教員になる義姉へのエール」人生の目的は「愛の実践」
#82 26歳のBC級戦犯が教誨師に宛てた遺書 法衣の袖に隠して教誨師は遺書を持ち出した
#83 スガモプリズン「死刑執行」その瞬間は 突然バターンと夜空に透る激しい音響で胸を揺さぶられ
#84 石垣島事件 現場を仕切った中尉が残した遺書「子供は軍人にはなすな これは子々孫々に伝えよ」
#85 絶筆「戦争が如何に残酷なものであるかを良く覚えていて下さい」石垣島事件で死刑になった中尉が残した遺書
#86 19歳で捕虜殺害に加わり「石垣島事件の戦犯となって」手記を残した二等水兵犯した罪に懺悔の念
#87 機関銃が怖くて「飛行士を銃剣で突いたと述べたが実際は突いていない」19歳で事件に遭遇した二等水兵の調書
#88 実況見分調書 石垣島事件の処刑現場に立ち会ったのは事件当時17歳の少年兵
#89 花嫁姿の写真を封印した戦犯死刑囚の妻 夫亡きあと必死に働き二人の息子を育てた
#90 戦犯死刑囚 獄中からの手紙「これが最後の花見かと思うと」家族は封筒に桜花を入れた
#91 BC級戦犯 獄中から妻への手紙「けなげなお前の笑顔」が頭に浮かび「本当にすまない」
#92 死刑宣告を受ける少年兵の写真 身元を特定 八重山で盛り上がった減刑嘆願運動
#93 戦犯死刑囚「次から次に逝く友を見て」死刑執行までに間に合わないかも 獄中から母へ写真を求める手紙
#94 隠蔽工作 遺体は掘り起こして燃やされ海へ「私は命令の通り火葬しました」
#95 資料全面公開 松雄の上申書「命令には如何なる違反も許されず」起訴状に書いてあることは解せない
#96 死の時が迫っていることを意識したBC級戦犯 スガモプリズンから毎週一度の手紙は息子へ
#97 ひと月で6人の仲間を見送り「いずれ自分も逝かねばならんと自覚」社会のどん底に生活していても慈悲の光明に照らし出され
#98「敗戦国側が戦勝国側から一方的に裁かれた根本的不公平」サンフランシスコ平和条約発効で元海軍大佐が意見書 戦犯たちの釈放勧告は緊急
#99「法による裁きというより復讐感を伴う政治裁判」戦犯たちの釈放に向けて元海軍大佐が意見書「不合理な結果、犯罪意識極めて薄く、敗戦の国家的犠牲者であるとの感情」
#100 BC級戦犯 死刑囚の手紙「最後の日まで健康でありたい」届いた写真に「いつしか熱いものがこみ上げ見えなくなり」
#101 老いた父は嘆願に奔走 戦犯死刑囚の手紙「書いているうちに胸が一杯になり」息子にはカタカナで「イツモ、オモッテイマス」
#102 戦犯死刑囚 妻への手紙 囚われて2年4ヶ月で面会は1回のみ「逢いたい気持ちは自分も全く同様」
#103 歌を詠む戦犯死刑囚たち「昼寝して夢に父呼ぶ愛し子の声」戦争への憎悪、悲運への憤怒を歌に込め
#104 スガモプリズンからの手紙 戦犯死刑囚「鉄格子をすり抜けて心は故郷へ」家族仲良く暮らせよ
#105 スガモプリズンから最後の手紙 減刑される人あれば・・・残る7人は死刑確定「死刑囚棟にふたたび無常の嵐の気配」
#106 スガモプリズン最後の死刑執行 死刑囚の棟から連れ出される7人は平常心「笑顔でさよなら」

筆者:大村由紀子
RKB毎日放送 ディレクター 1989年入社
司法、戦争等をテーマにしたドキュメンタリーを制作。2021年「永遠の平和を あるBC級戦犯の遺書」(テレビ・ラジオ)で石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞、平和・協同ジャーナリスト基金賞審査委員特別賞、放送文化基金賞優秀賞、独・ワールドメディアフェスティバル銀賞などを受賞。