16歳で母と弟妹を亡くした父

久留米空襲

終戦の4日前、1945年8月11日の久留米空襲では、米軍爆撃機の編隊が2度、福岡県久留米市上空に飛来し大量の焼夷弾を投下した。焼失した住宅は4506軒、214人の市民が犠牲となった。この空襲で母と弟妹を亡くした茂樹さんは、当時16歳だった。

茂樹さんは、久留米市にある月星化成(現・ムーンスター)で靴を製造する仕事に就いていた。台湾に二度、技術指導に行ったこともある。

熊本工場新設に伴って住まいを熊本市に移し、60歳の定年まで働いた。

真由美さんは、20代の頃に両親と久留米までお墓参りに行ったことがある。その時、茂樹さんが墓碑を指して、「家族はみんな空襲で亡くなった。ここに名前があるだろう」とポツリとつぶやいたことは覚えている。しかし、真由美さんも母・直子さんもそのことについて詳しく聞くことはしなかったという。

山本真由美さん(62)
「墓碑に刻まれた弟妹の享年には、1歳、2歳の文字もありました。母も私も、詳しく聞き返すことはしませんでしたが、母が『じゃあお父さんは、みんなの分まで長生きしないとね』と言うと、父は『そうだな』と嬉しそうに答えました。大人になって感じることですが、母は、昭和20年の終戦時は10歳。父は16歳だったので、当時の記憶が全く違っていたのだと思います」

戦争体験 家族にも話さない父だった

山本茂樹さんと長女・真由美さん 左は次女・博美さんを抱く妻・直子さん(1970年撮影)

山本真由美さん(62)
「毎年、終戦記念日が近づくと、新聞でもテレビでも終戦特集が報道されますが、父は自分の体験を一切話すことはありませんでした。まだ私が幼かった頃に、父が飲んだ勢いで『久留米の空襲の時に、家族を探すために小倉から久留米まで歩いたんだ。すごくきつかったなー』と言ったのをおぼえているくらいです。今思えば、どんな思いで100キロ以上も歩いたんでしょうか。1962年生まれで高度経済成長期に育った私は、戦争については教科書で表面的にしか学んでいないので、遠い昔の終わったことだと認識していました」