核兵器の使用や保有などを全面的に禁止する核兵器禁止条約の第2回締約国会議が27日から米・ニューヨークの国連本部で開かれます。きのこ雲の下で何が起きたのか。RCCがこれまでに取材してきた被爆者の訴えを改めて伝えます。今回、お伝えするのは、放射線の被害です。

原爆投下から間もなく、脱毛や下痢などを訴える被爆者が増え始めました。当時、広島市内や、近郊の小学校は、臨時の救護所となっていました。

大芝国民学校(現・大芝小学校 広島・西区)で、力なく横たわるのは、竹内ヨ子コ(よねこ)さん(当時 31歳)です。けがのなかったヨ子コさんですが、被爆から1か月後、体調が急変しました。

竹内ヨ子コさん(1945年10月)

そばには、娘の陽子さん(当時 12歳)の姿もありました。足に大けがをしているだけでなく、髪の毛が抜け、腕は糸のようにやせ細っていました。

2人に付き添っていたのがは、竹内信之さんです。1995年に取材に応じた、信之さんは、「外傷のない母は助かる思っていた、大丈夫だと思っていた」と語っていました。

しかし、母のヨ子コさんは1945年10月、亡くなりました。そしてその翌月、妹の陽子さんも母を追うようにして、息を引き取りました。