福山城に移築した理由は
なぜ伏見城の建造物を福山城に移築しなければならなかったのでしょうか。京都学・歴彩館の若林正博・京都学推進課長は徳川2代将軍・秀忠による大名の再配置事業と関連があったと指摘します。
秀忠が政権を掌握したと広く示すために、家康の一周忌に当たる1617年に西国大名の再配置を行い、播磨国(現兵庫県)まで譜代大名を置きました。ここが当時の譜代大名の西端でした。
さらに2年後の1619年に、安芸・備後を治めていた福島正則を改易し、備後に譜代大名である水野勝成を入れ、譜代大名の治めるエリアを西に延ばしたのです。
当時、伏見城は「天下人の城」という権威があったため、秀忠はこの一連の処置を江戸城ではなく、伏見城から行ったとみられています。
若林課長は「水野勝成は譜代大名の象徴として福山に入っていた。天下人あるいは幕府の基盤を固めた城郭の建物が福山に来ていることは非常に重要な事実だ」と指摘しました。



































