仙田信吾 社長
「やっぱり、広島のサッカーにとって大事な歴史ですね。当然、5対0とか、6対0とかでボロ負けになるわけですよ」


「それで本格的なドイツ式サッカーを学びたいっていうんで、もしかしたら、こういう船で広島高等師範学校の生徒たちは似島に渡っていったようなんですね」


圧倒的に技術が上回っていたドイツサッカーを学んだ生徒たちは、先生となった後も、学んだ技術を広島の学校の生徒に伝え、広島サッカーのレベルは全国トップクラスだったといいます。


原爆投下から2年後、復興ままならない状況下で、今の広大付属高校が、翌年は今の広島国泰寺高校が、高校サッカー選手権で全国優勝。広島に歓喜をもたらしたのです。


サンフレッチェ広島 仙田信吾 社長
「当時の広島のチームだけが左右両足でボールを操れたといわれています」

ちょうどそのころ、サッカーを始めた下村幸雄さん、90歳です。


原子爆弾が投下された1945年8月6日、広島市役所付近で被爆した下村さんは、奇跡的に助かり、被爆から3年後、修道高校に復学した翌年、サッカー部に入部しました。


元日本代表監督 下村幸男さん
「まだ周囲に学校の建物が倒れたまま、後片付けせずに残っている、せまいグラウンドで2年上の先輩がサッカーの練習をしていた」


ボールも数個しかなく、傷ついたら自分たちで縫い直す時代でしたが、広島サッカーは戦後も全国をけん引したと話します。


下村幸男さん
「なぜかといったら、その先輩たちの中に戦前、サッカー部をしていた人が何人かいた。特に修道は一中(国泰寺)に負けるなと教育を受けた、そういう先輩が残っていて、サッカー部を始めた」

先輩の影響を受けた下村さんは、東洋工業蹴球部に入り、日本代表選手として活躍しました。


そして、その後、さらにドイツサッカーの影響を受けることになるのです。