自らの体験から、新たに被爆者を生み出してはいけないと訴え続けた 坪井直 さんが亡くなって、24日でちょうど1年です。
この1年で核兵器をめぐる世界の情勢は廃絶どころか、使用の危険性が懸念されるまで不安定な状況となっています。
坪井さんの反核の半生をあらためて振り返ります。

1945年8月6日8時15分…。
坪井さんは、爆心地から1.2キロの広島市・富士見町あたりで原爆の熱線と爆風、放射線を全身に浴びました。核兵器廃絶を訴え続けた、その後の人生の原点でした。

(2015.8.6「あの日を遺す」より)
「裸で逃げるんじゃからね、半裸。ズボンは焼けてシャツも何もみな飛んどる。耳なんかちぎれとった。それが今、こうなっとる。石ころを拾ってちょっと股を広げて、『坪井はここに死す』と書いたんじゃけ」

およそ50日の間、意識が戻らなかったものの母親の必死の介抱で一命をとりとめたといいます。戦後は中学校で数学の教師を務めました。あだ名は「ピカドン先生」でした。

(2013.5.6「教え子による米寿お祝い会」)
「ピカドン先生の今後のますますの健康と活躍と、我々の健康を祈って、乾杯したいと思います。乾杯、乾杯!」
「みんなのおかげで生きてきたいうことは、最も感謝するところじゃね」

放射線によって血液を作る機能が低下し、同僚の教師からの輸血で助けられたこともありました。
(教え子の女性)
「いまあまり目立たないんですけどね、昔、若い頃は割りとケロイドが目立ってたし、体がすごく弱かったんですよ」
校長まで勤め上げた後の1993年、坪井さんは 森滝市郎 さんが理事長を務めていた県被団協の事務局に入りました。

当時は国家補償に基づく被爆者援護法の制定運動が、最高潮に達していました。ふだんは別々に活動する被爆者団体が結束、集会を開いて援護法実現を訴えました。
そして1994年12月、国家補償を求め続けた社会党が与党に加わる村山内閣で、被爆者援護法は成立しました。
しかし、ようやく成立した被爆者援護法は多くの被爆者の期待を裏切るものでした。戦争を起こし原爆投下を招いた国の責任を問う「国家補償」、それに原爆死没者への個別弔意を退ける内容だったのです。

結局、原爆医療法と特別措置法という二つの現行法を一つにまとめた形に終わりました。坪井さんたちは、その後もあるべき援護法を求め続けていくことになります。
(1994年)
「今まで行ってきた国家補償に基づく援護法でなければね、我々は本当の援護法ではないと。戦争責任を認めて、遺族に弔意を与える、償いをすると。それが十分表れていないのがね、残念ですね」

坪井さんはその後、2000年から日本被団協の理事長、2004年からは県被団協の理事長を務めました。自らの体験から「きのこ雲の下で何が起きたのか」、「核兵器が使われると何が起きるのか」を国の内外で訴えました。
(2005.5.2NYデモ)
「原爆の最大の被害は、たとえ生き残っても、精神的・身体的な人間破壊が生涯続くのです」

そして2016年5月、世界が驚くニュースが伝わりました。原爆を落とした国、アメリカの大統領が被爆地ヒロシマを初めて訪れることが決まったのです。

「オバマさんが来ることを、ありがとういうんじゃ。早く言えば、はあ感謝感謝いうようなもんでね。(謝罪の言葉は?)無しでいい、私は。広島に来るだけで、はあ何よね、強い意志が無かったら来れんわ」

坪井さんは核兵器が無くなるまで「活動をあきらめてはいけない」ことを、最後まで訴え続けました。

「私自身は名前の通り、素直に燃えて燃えて燃え尽きるまで頑張ると。(核兵器が)無くなるまで、ネバーギブアップです」

がんや心臓病を患いながらも活動を続けた坪井さんですが、体調を崩してからは会合などの出席を見合わせていました。

坪井さんは2021年10月24日貧血による不整脈で亡くなりました。96歳でした。