「ノー・モア・ヒバクシャ」この印象的なフレーズで核兵器廃絶を世界に訴えた故 山口仙二さんの国連演説の直筆原稿が被爆者団体の地下倉庫で発見されました。被爆地長崎の平和運動、その原点とも言える原稿です。

長崎市にある『長崎被災者協議会』の地下倉庫に原稿は眠っていました。

「これです」

発見したのは4年前から被災協が所蔵する膨大な資料の整理を進めている研究者たちです。

封筒に手書きで記されていた文字は『SSD2』=『第2回 国連軍縮特別総会』。
※“2”はローマ数字の“Ⅱ”

1982年に山口仙二さんが被爆者として初めて国連の場で核兵器の完全廃絶を訴えた演説の原稿です。

第2回国連軍縮特別総会 ニューヨーク国連本部での山口仙二氏:
「ノーモアヒロシマ、ノーモアナガサキ、ノーモアウォーノーモアヒバクシャ」

長崎総合科学大学 木永勝也客員研究員:
「核兵器の廃絶というものを国連の場で初めて訴えることが可能になった、その可能になった時の大事な発言が山口仙二さんの発言であると」

長崎被災協 山口仙二副会長(1982年7月当時):
「これを議長に渡してきたっです。読んでくださいって」
NBCに残されている当時の帰国報告を伝えるニュースです。

長崎被災協 小佐々八郎会長(当時):「ご苦労じゃった」
手元に映る原稿を今回見つかったものと比べてみると…同じものであると判断されます。


『長崎証言の会』編集長 山口響さん:「間違いないですね」

長崎総合科学大学・木永勝也客員研究員:
「これ(当時の映像)と全く同じですから、多分この原稿が直筆原稿で、なおかつ総会の場で発言した時のもの──ひょっとしたら読み上げた原稿かも」

米ソ冷戦の時代、世界の終わりをカウントダウンする終末時計は『3分前』でした。

核戦争勃発の危機が高まる中、国連初の被爆者の訴えは許可されました。空席が目立つ議場でも山口さんは力強く訴えました。

山口仙二さん(当時):
「色んな使命を体中に受け止めて一字一句にもう本当に命を懸けて発言をしてまいりました」

演説の中では今の『核兵器禁止条約』につながる国際協定の採択も求めています。

原稿用紙の上部に“ゆっくり”と書き込まれていたのは、被爆当時の惨状を伝える部分です。

(第2回 国連軍縮特別総会の音声)
「私の周りには目の玉が飛び出したり木切れやガラスが突き刺さった人、首が半分切れた赤ん坊を抱きしめ 泣き狂っている若いお母さん 右にも 左にも 石ころの様に死体が転がっていました」


「私達被爆者は訴えます。命のある限り私は訴え続けます。ノーモアヒロシマ、ノーモアナガサキ、ノーモアウォー、ノーモアヒバクシャ、ありがとうございました」

世界終末時計はいま『1分30秒』。被爆の実相を身を持って知る被爆者の声が、言葉が、核兵器がもたらす悲劇を訴え続けています。