49年後に知った第一目標は「自宅付近」 今も心に響く亡き友の声

そして迎えた8月9日。朝から体調が悪かった岩永さんは、自宅近くの病院に行きそこで被爆しました。
岩永さん:「写真を撮る時のあのマグネシウムみたいなパッとしたみたいなパーッと白で光って。へ?っていう間はなく、もうめちゃくちゃよね。ガラスから何から」
記者:「けがは?」
岩永さん:「なかったのよ、それが」

爆心地から3キロあまりの岩永金物店は、倒壊を免れ家族も無事でしたが、当時からある店の倉庫には爆風の凄まじさを物語るものが残っています。

岩永さんの長男 岩永和之さん:「これですね、これが原爆で曲がった鉄のアングルです」
学校が再開したのは10月。7クラスあった岩永さんの学年は5クラスに。林嘉代子さんが亡くなったのを知ったのも、その頃でした。

岩永さん:「無表情と同じ。『あの人亡くなったんだってよ』『あ、本当』って、こう。戦争に負けたという事実、それ自体がわからんのよね。だって、勝つまでは頑張りますとか何とか言って一生懸命やってきて、はぁっと。そんなもんよ」

岩永さんたち生き残った42回生は、半年後、青春を取り戻せないまま卒業しました。
被爆から49年後、長崎原爆にまつわる新たな事実が報じられます。

あの日、視界不良で第一目標だった小倉に原爆を投下できなかったB29が次に投下を目指したのは、長崎市の中島川にかかる常盤橋と賑橋付近だったのです。

そこはまさに、岩永金物店のある場所でした。
岩永さん:「近所の者で、ええっ、あそこが、中心だった、ええっ」
あの日、仕事に行きたがらなかったのを、母親になだめられ家を出た嘉代子さん。
動員先に行かず爆心地だったはずの自宅近くにいた自分、その頭上にかかっていた雲。

嘉代子さんら雲の切れ間にいた友人たち。
生と死を分けたものは何だったのかー?こたえが見つかることはありません。
犠牲となった友人たちの最期も聞けないまま81年が経ちました。
記者:「(友人たちの最期を)ご家族とかに聞けなかったですか?」
岩永さん:「そうね…」
記者:「いくら仲が良くても?」
岩永さん:「そうそう…難しいね」
嘉代子さんら友人たちと過ごした青春。突然絶たれた青春に何とか自分なりに整理をつけ生きてきました。

岩永さん:「ふっと思い出すこともあるしね。なんかもうそこにいるような気もするしね」
誰に語るでもない今も聞こえる亡き友の声があります。

吹き替え:『はるか彼方岩(いわ)さんへ』『嘉代(かよ)ちん』








