「オゴチサウ食べたかった」手紙に残された15歳の素顔と戦争

長崎市万屋町。中島川沿いに建つ創業131年の岩永金物店。岩永さんはここで生まれ育ち、今も暮らしています。

母と二人の姉も県立長崎高等女学校出身だったことから、岩永さんもおのずと県立高女に進学しました。

1年生の時同じクラスだった林嘉代子さんとは、背丈が同じだったことから並ぶ時はいつも隣。お互いピアノを習っていたこともあり、すぐに仲良くなったそうです。

岩永美代子さん:「(林嘉代子さんは)お茶目さん。だから、お母さんがいつでも『まぁ、嘉代ちゃんはもう』って細々とした声でよく言ってた、笑ってた。一人娘だったからね」

当時嘉代子さんから届いた手紙を、今も大切に持っています。親戚の結婚式に参列したことを綴った文面。お茶目な人柄が伝わってきます。

吹き替え:『おしろいぺたぺたつけてさ。おまけに口紅までぬったでせう(でしょう)。だから何だか気持が悪くて口が結べないの。それに帯をキュキュしめられて苦しくて苦しくて。おかげでオゴチサウ(おごちそう)何もたべんかったわおおあはれ(あわれ)なるかな嘉代子嬢(かよこじょう)』

岩永さんたちが入学したのは1942年。日本はすでに太平洋戦争に突入していましたが、当初は、英語や水泳の授業、運動会もあったそうです。

ピアノをしている生徒有志による音楽会。岩永さんはバイエル100番を演奏しました。

部活動もあって、岩永さんは庭球・テニス部でした。

岩永さん:「靴がないでしょう。ね?どうかすれば素足だろうね」
記者:「テニスは結構得意だったんですか?」
岩永さん:「そうね。やっぱりこれ(腕)が強かった」
記者:「腕の力が?」
岩永さん:「そいけど、懸垂は下手くそだったのよ(笑)」

しかし、次第に日常は奪われ、校舎は敵機の目をくらますために迷彩色に塗りかえられました。3年生の秋からは学徒動員が始まり、岩永さんは兵器工場で働きました。

岩永さん:「魚雷を作っていた。筒っぽのだいぶ大きいドラム缶のような、それに今度は部品をくっつけていくわけね。そういうのをやらせられるのさ」

一方、嘉代子さんの動員先は、三菱兵器製作所の給与課で鉄筋コンクリート造りの城山国民学校にありました。

岩永さん:「あんた給与課はよかねー、あんた、手の汚れんとよ、とかやっぱ言ってたよね」