原子力空母エンタープライズに通訳として乗船

硫黄島司令官時代(昭和40年代)
学生闘争の時代、佐世保に原子力空母エンタープライズが入港した時は、通訳として乗船しました。また長崎空港が開港した時は、新人管制官の指導を担当したそうです。
その後の父は、かつて特攻隊を志願した鹿屋基地や、日本兵が全滅した硫黄島基地、マッカーサーが降り立った厚木基地、激戦地沖縄の那覇基地などで働きました。
「後進を指導したい」
最後の勤務は「後進を指導したい」ということで、佐世保教育隊の司令官を務めました。

厚木基地時代(昭和50年代)








