最期の言葉「楽しかったことは ひとつもなかった」

長崎被災協は、授賞式が行われるノルウェー・オスロで配布する英語のリーフレットを作成。

核兵器廃絶を世界に発信した代表的な被爆者の声と共に、若くして人知れず亡くなった一人の被爆者も紹介しています。

光石 信幸 さん。母親が妊娠3か月で被爆したために「原爆小頭症」として生まれ、知的障がいがあった他、様々な病に苦しみました。

光石さんの録音テープ:
「とにかく手がしびれて、足が痛いし。(職場で)邪魔だからと毎日んごと(毎日にように)怒られて。それで辞めて」

光石さんのことをリーフレットに書いたのは、長崎被災協で長年、被爆者相談員を務めてきた横山 照子 副会長です。

横山 照子 副会長:
「私が一番、相談活動をやりながら、心にいつも残っているのは、光石くんのことなんですね」

家族にも愛されず、いじめを受け、20代半ばまで自分が被爆者とも知らなかった光石さん。

被爆者の仲間と出会い、原爆小頭症の認定を受け、国家補償の援護法を求める運動にも参加しました。

横山 照子 副会長:「デモ行進なんかにもね(参加して)、『もう光石くん、ここで帰ろう』と言ったら、『いや、自分は最後まで歩く!』と言って」

しかし、病は、ようやく生きる意味を見出した光石さんに重くのしかかります。47年の生涯を終える際に残した最期の言葉ー

「楽しかったことは ひとつもなかった」

横山 照子 副会長:
「(原爆が投下された時)まだ生まれていなかったのに、本当に世の中にも出ていないのに被害を受けて、そして、こういう人生を辿らなきゃいけなかったと。思い出すと本当に…(涙)」